谷中ぶらぶら、雨ポツポツ(10) 下谷区初音町(続き)。

世の中には長生きの人がいるもので、新内の岡本文弥は101歳まで生きた。昭和59年に改訂新装版が出た『谷中寺町・私の四季』(三月書房刊)の「あとがき」には、<いま90歳になるけれど自分では世間でいうほどの「老人」という気はしないのです。・・・・・>、と記している。
岡本文弥、長く谷中に住んでいる。昔日、昨日記した瑞輪寺の前には、桜の枯木が立っていたようだ。
<瑞輪寺の前の道のべにそれこそ今にも倒れそうな桜の枯木がが立っていて、ふだんは生命尽きて見る影もない感じですがそれが季節ともなれば何とまあ驚くことには、一輪挿しに挿しそうな一枝に二三輪の花を咲かせます。こんな哀れな、そして棄て難いふぜいは・・・・・。然しこれもいつのまにか跡方なくなくなりました>、と記す。
そして、こうした老樹古木の保護をしてもらいたい、という趣旨のことを綴っている。

上野桜木の交差点を三崎坂の方へ少し入った大雄寺の前に、このような立て札がある。
ここに大きな楠の木があるんだ。その下には、幕末の三舟のひとり・高橋泥舟が眠っている、とも。

大雄寺、入ってすぐ大きな楠の木が目に入る。

頭上大きく枝を広げている。

「保存樹 くすのき 第8号」、と記されている。
樹木の保護策、十分なのかどうかは知らない。しかし、数十年前、岡本文弥が危惧していた樹木保護、その試みは為されている。
幕末期、幕臣にも傑物はいた。勝海舟、山岡鉄舟、と共に「幕末の三舟」と言われる高橋泥舟もその一人。泥舟、槍の名人でもある。ところで泥舟、本当にこの樹の下に眠っているのだろうか、な。

この日案内してくれた谷中生まれのSさん、「これが谷中の路地なんですよ」、と言ってこういう細い裏道へ入っていく。

突き当たりを曲がり、こういうところへ出てきた。
谷中路地裏である。

その内、西光寺へ。
境内の韋駄天と十一面観音像。

こういう説明版が立っている。
豊臣秀吉の朝鮮攻めの折り、藤堂高虎がが請来した、と書いてある。ンッ、”請来”したって、”持ってきた”ってことじゃないのかな。
暫らく前から、日韓の間で、「仏像を返せ」、「いや、元々はどうこう」、といがみ合っていることがあるが、長い歴史の間には、微妙な問題、数限りなくあるのだろう。いや、この韋駄天がどうこうとは申しませんが。

その内、Sさん、こういうところへ入る。
傘をすぼめなければ通れない、というほどの狭い路地。

途中に小さなお稲荷さまがある。小さなおいなりさま。

振り返えれば、こういう路地。

表通りへ出た。三崎坂である。
小さなお稲荷さまがあった家の表側。
何の店なんだろう。「職人の極 プロの技」なんて古くさいポスターが貼ってある。よく見るとクリーニング屋であった。谷中、職人の町でもある。