谷中ぶらぶら、雨ポツポツ(7)  最後の将軍。

徳川幕府に限らず、武家政治、最後の将軍は徳川慶喜。

天王寺から徳川家の墓のある寛永寺の方へ歩く。
徳川慶喜の墓はこちら、という標識が現れる。そうかこちらか、と思っていると、「慶喜の墓は、こちらの方が近いですよ」、という声が聴こえる。傘をさしたオジさんが立っている。「ついてらっしゃい」、と言ってスタスタと前を行く。

少し行くと、「これは徳川慶喜の四男・徳川厚の墓です。墓碑に徳川慶喜の何々と記しているのは、この四男だけです」、と言う。
写真ではよく分からないが、確かにそう彫られている。

さらに進むと、「これは慶喜の十男の墓です。勝精となっているでしょう」、と言う。「こういう円い墓、神道の形式なんです」、とも。

徳川慶喜の十男、勝海舟の孫娘と結婚したそうだ。
「明治の世となり、徳川慶喜の息子では何らかの不利益に襲われるかもしれない、と考えたようです」、と親切なオジさんは話す。「勝海舟も息子が早世し、孫娘を育てていたが、慶喜の十男とその孫娘を結婚させました。主家を守る、という意識もあったのだと思います」、と続ける。
徳川慶喜がらみのことについてよく知っているし、何だか親切なオジさんだな、と思っていた。と、「私、ボランティアで寛永寺墓地のの案内をしているんです」、と言う。
この日は、終日、小さな雨が降っていた。その中を、傘をさして寛永寺墓地の説明に来ていた模様。

向こうの方、新しい墓が多くある。
ボランティアのオジさんの話によれば、ここらは元々大奥の女性たちの墓であった、という。それが無縁仏となって、取り払われ、新しい墓地として売り出されたそうである。
売り出しの最低価格は、420万だったか480万だったか。1.2メートル四方の広さだ、と言う。多くの墓は、「家の一軒も建つ値段であります」、と親切なボランティアのオジさんは話す。ウヘー。

徳川慶喜の墓所。
門扉には、葵の御紋。

このような説明板がある。

神道形式の墓。
左が徳川慶喜、右が正室の墓である。

その前に立つ顕彰碑。
鳥羽伏見の戦いで敗れ、大政奉還を為した慶喜について、こういうことを記している。
<世界ノ大勢ヲ洞察シ国情ノ趣クトコロヲ看破シ、二百六十五年ノ幕府政権ヲ朝廷に奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ・・・・・>、と記されている。
チョッとー、カッコつけすぎじゃないの。

親切なボランティアのオジさんの説明によれば、徳川慶喜には23〜4人の子供がいたそうだ。
正室の子は一人。多くの側室がいたが、その大部分の子を生んだのは、この後ろにある二人の側室、とボランティアのオジさんは話す。
実は先日、わが道の人・Sさんに、彼を撮った何枚かの写真を送った。もちろん封書で。
何日か経って返事がきた。長い手紙である。中にこういう箇所がある。
<慶喜が生まれたのは1837年、小生の生年よりピッタリ100年前。将軍になったのが1866年、弱冠29歳。何のことはない、金正恩と同じ。・・・・・。彼は鳥羽伏見の戦いで大敗を喫し、大坂から自分だけ船で江戸へ逃げ帰っていきます。立派な戦犯だと思います>、とSさんは記す。
さらに、<あの時のオジさんの話では、慶喜の落胤が二十数人もいたとのこと。慶喜は江戸落城後、駿府へ封じられたとのことですが、大奥のハレムも引き連れて行った模様。二十何人もの子を産んでいるのですから>、と。
徳川慶喜、大正の始めまで生き永らえる。
Sさん、このことに悲憤慷慨する。
<近藤勇は板橋で打ち首となった。土方歳三は函館五稜郭で流れ弾に当たり戦死した。その統領たる徳川慶喜は、二十数人の子をなしたばかりか、大正2年まで生きた。これには驚いた>、と記し、さらに、<この国に、リンカーンやフランクリンが生まれる素地はなかった>、と続く。
そういうことなんだな。