谷中ぶらぶら、雨ポツポツ(6) 古刹・天王寺。

<百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける>。
露伴が『五重塔』を書いた明治25年(1892年)には、譚(話)ばかりか、感応寺(天王寺)の五重塔自体も聳え立っていた。さらに6〜70年後まで。放火され、焼失するまでは。
心中も愛の一形態。心中するのは自由だが、文化財を巻き添えにする料簡は許せない。
そのようなことを考えつつ暫らく歩く。

と、天王寺(感応寺)の山門。

護国山天王寺、室町時代、応永(1394〜1427年)頃の創建、という。日蓮宗から天台宗への改宗、感応寺から天王寺への改称のことも。いずれにしろ、東京では古刹のひとつ。

この仏、天王寺大仏とか谷中大仏とか、と呼ばれているそうだ。
後ろに駅の向こうのノッポのビルが入ってしまうが、「銅造釈迦如来坐像」、台東区の有形文化財でもある。元禄3年(1690年)に建立された丈六の仏さま。
丈六仏、坐像の場合はその半分故、高さ8尺の大仏さまである。

境内には、こういう碑もあった。
お地蔵さま・地蔵菩薩の下には・・・

「學童守護」と彫られている。その下には、このようなレリーフ。
戦時のものである。
「學童守護」とは、”學童を守る”という意か、”學童が守る”という意か。暫し、考える。

沙羅双樹。
その右手奥に見えるのは本堂。穏やかな佇まいのお堂である。奈良の十輪院を模したそうだ。十輪院、地味な趣を持つ寺である。静謐、優美な古刹である。その十輪院を模したと言われれば、新興都市・江戸のことだ、5〜6歩譲ればそれもそう、と思ってもいいか。

本堂の横の泰山木、大きな花をつけていた。

境内のあちこちで落ち葉や枯れ枝を掃除していた。泰山木にもハシゴをかけて人が登っていた。何をしていたのかは解らない。枯れた葉を取っていたのかもしれない。

集めた落ち葉や枯れ葉を袋につめ、男が歩いてくる。山門前に停めた車のところまで。これも天王寺の日常のひとコマなんだろう。