谷中ぶらぶら、雨ポツポツ(5) 五重塔。

明治20年代、「紅露逍鴎」という言葉があったそうだ。尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥、森鴎外、4人の名の一文字をとったものである。後の世に、いずれも大文豪として名を残すこの4人、この頃は20代から30代という年齢。中でも、紅葉と露伴は買われていたようだ。
<木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、・・・・・、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとどめて翠の匂ひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリリと上がり、洗ひ髪をぐるぐると・・・・・>、とテンポよく続いていく。
幸田露伴著『五重塔』の冒頭である。

岩波文庫の幸田露伴著『五重塔』の表紙カバーを複写する。
『五重塔』は、こういう小説である。岩波文庫の解説を書いている、桶谷秀昭が記しているような物語である。だがしかし、「のっそり十兵衛」の他にあと一人主役がいる。のっそり十兵衛も世話になっている大工の棟梁・川越の源太である。
上に引用した『五重塔』の冒頭部は、その川越の源太の女房・お吉のことを表わしている文。その頃の30前後と言えば年増であるが、その粋な佇まい、次々に記されていく。文語体の露伴の文章、イヤー、とても心地よい。
『五重塔』が発表されたのは明治25年(1892年)、幸田露伴25歳の時、テンポのいい文章が跳ねる。

ここなんだ。五重塔が建っていたのは。
天王寺五重塔跡の説明書きがある。
現在の天王寺は、元は感応寺と称していた寺。
天保4年(1833年)に天王寺と改称している。明和9年(1772年)の大火で焼失したが、羅災から19年後の寛政3年(1791年)に再建されたのが、幸田露伴の『五重塔』のモデル。

感応寺五重塔の再建、川越の源太が請け負うのが当たり前のところ、のっそり十兵衛が名乗りをあげる。感応寺の朗円上人へ直談判。
<源太十兵衛ともに聞け、今度建つべき五重塔は唯一ツにて建てんといふは汝たち二人、二人の願ひを双方とも聞き届けては遣りたけれど、それは固より叶ひがたく、・・・・・>、と感応寺の上人は二人で話し合え、と言う。
男気のある川越の源太、いわば子分ののっそり十兵衛に、二人で建てようじゃないか、と話すが、十兵衛撥ねつける。俺は副(そい)でいい、と言っても、のっそり十兵衛はイヤだ、と言う。
侠気の川越の源太、のっそり十兵衛に五重塔の建立を譲る。のっそり十兵衛、あまりにエゴが、と誰しもが思う。身を引いた川越の源太が下絵図や積り書などを提供しよう、と言ってもそれを断わる。
何たるヤツだ、のっそり十兵衛。

この向こうに五重塔は建っていた。

その五重塔、今はない。
昭和32年7月6日の未明、焼失した。無理心中を図った男と女による放火によって。
写真が3枚かけられている。
左は、在りし日の天王寺五重塔。真ん中は、昭和33年7月6日、つまり55年前の今日未明、炎に包まれる五重塔。右は、消失後の有り様。

東京都指定旧跡との石杭が立っている。
天王寺五重塔跡、と。

今、残っている五重塔の礎石。
幸田露伴の『五重塔』の最後は、こう。
<暴風雨のために準備狂ひし落成式もいよいよ済みし日、・・・・・、十兵衛も見よ源太も見よと宣ひつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に記し了られ、・・・・・、百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける>、と。
露伴の『五重塔』、のっそり十兵衛のエゴの物語か、エゴを越えた心意気の物語か、川越の源太の男気、侠気の物語か、それとも感応寺の上人の説く互いに認めあう仏の心を記したものか。
いずれも当てはまる。
それ以上に、文語体の露伴の文章、快よい。