重たいパンチ、腹に食った。

飲みすぎると、やはりよくない。
昨日もそう。終わりの頃には、へろへろ。ダブっちゃうし、数字の単位も間違えた。
バカでかいストレッチ・リムジンの中で、人民元相場を張っている28歳の男・エリック・パーカーが、その日失おうとしている金の単位を間違えた。”数十万ドル”や”数百万ドル”ではなく、”数十億ドル”や”数百億ドル”なんだ。だから、「ホントかな」って思ったんだ。
まあ、私個人にとっては、”数百万ドル”であろうと”数百億ドル”であろうと同じようなものであるが。
巨額の投機マネーを操っている連中の金銭感覚なんて、まともじゃない。特にこの28歳のエリック・パーカーは。
そういえば、こういう場面もあった。
年上の愛人から、「個人所有のロスコが売りに出るのよ。素晴らしい絵よ」、という話を聴く。その返事がこうである。「ロスコ・チャペルを買いたい。あいつらはいくらくらい要求するかな?」、というもの。「でもね、ロスコのチャペルは全世界のものなのよ」、「俺が買えば俺のものさ」、と続く。ふざけたヤツだ、この若い男。
当たり前だ。ヒューストンのロスコ・チャペル、何百億、何千億の金を積もうと買えるものではない。
金銭感覚ばかりじゃない。音声認証のピストルで自らのボディーガードを撃ち殺す。そのピストルで自らの掌を撃ち抜く。すべてがニヒリスティック。暗殺者のピストルが頭に当てられるのも、ニヒリスティックなマネー資本主義の一断面。
時を遡り、第二次世界大戦後のアメリカにも、問題を抱える男がいた。帰還兵のフレディ。アルコール依存の男である。

とても重たいパンチをボディーに食ったような映画である。
アルコール依存の帰還兵・フレディ、デパートのカメラマンの職を得るが、問題を起こす。何事も上手くいかない。社会と折りあうことができないんだ。心に傷を負っている。今の言葉でいえば、PTSDということになろうか。
放浪の旅に出る。酔って潜り込んだ船で、新興宗教の教祖・ランカスター・ドットと出会う。”マスター”である。マスターの妻も挟み、フレディとマスター、ランカスター・ドットとの関係が描かれる。
教祖と弟子なのか、親子の関係なのか、友だちなのか、親分と子分なのか。マスターは、フレディを救おうとする。フレディも応える。
この新興宗教、”ザ・コーヴ”という。L・ロン・ハバードが開祖の新興宗教”サイエントロジー”を模しているらしい。その草創期、教祖がいて、その妻がいて、子供たちもいて、弟子たちもいる。そこへアルコール依存のフレディが入る。
フレディの教団内での存在感、だんだん高まっていく。すぐかっとなる直情傾向はあるのだが。しかし、人が人に惹かれるってこと、不思議なことなんだ。好き嫌いということばかりじゃない。損得勘定ということでもない。
しかし、その間に溝ができることもある。フレディとマスターの間もそう。別れていく。
でもしかし、人間はマスターなしに生きていけるのか。そのマスターも、またマスターを必要とするのではないか。
己、ただ一人だけでは生きてはいけない。

監督は、ポール・トーマス・アンダーソン、通称PTA。
この作品で、去年のヴェネチア映画祭の監督賞を取った。これでPTA、カンヌ、ヴェネチア、ベルリン、ヨーロッパの三大映画祭すべてで監督賞を取った男となった。
凄まじい映像表現をする男である。
ライヴァルたちが、こう言う。
『007 スカイフォール』のサム・メンデスは、「彼は真の意味で天才だ」、と。『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーは、「「ザ・マスター」はマスターフル(天才的)」、と。『アルゴ』のベン・アフレックは、「PTAは、僕にとって、オーソン・ウェルズだ」、と言う。
崔洋一に至っては、こう言っている。
「映画史に残るべき異形の美に満ちた作品だ。・・・・・アカデミー賞が作品賞と監督賞をノミネートから外したのは嫉妬と世俗への「配慮」に過ぎない」、と。
確かにそう。崔洋一の言う通りである。しかし、こういう作品、カンヌやヴェネチアで認められても、アカデミー賞の基準とは少し外れる。重たいパンチをボディーに食ったような思いの作品、それでいい。

アカデミー賞の作品賞や監督賞にはノミネートされなかったが、主演男優賞には、ホアキン・フェニックスがノミネートされた。凄まじい表情、凄まじい演技力。
今年のアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされたのは、『リンカーン』のダニエル・デイ=ルイスはじめ、『フライト』のデンゼル・ワシントン、『レ・ミゼラブル』のヒュー・ジャックマン、『世界にひとつのプレイブック』のブラッドリー・クーパー、そして、『ザ・マスター』のフレディに扮したホアキン・フェニックス。
受賞したのは、ダニエル・デイ=ルイスであるが、フレディに扮したホアキン・フェニックス、神懸かりとも言うべき演技であった。