尊厳の芸術(続き)。

日系アメリカ人が収容された強制収容所は、アメリカ政府の戦時転住局管轄のものが10か所、司法局管轄のものが4か所あった。12万人の日系人が送られた。
その中で、限られた材料と道具をもとに多くの日用品、美術工芸品が作られた。生活に必要なもの、生活を彩るもの、故国・日本の文化を偲ぶもの。その創造物は多岐にわたっている。

「ハートマウンテンの風景」。オチヨ オオモリ作。布、刺繍糸。
ハートマウンテン、もちろん強制収容所の所在地。

「マンザナー収容所の見える風景」。作者不詳。紙、水彩絵の具。

写真も多く展示されていた。
キャプションに「大食堂での食事の様子」、とある。

この写真のキャプションは、「収容所建設の様子」。
あちこちの収容所の建設は急ピッチで進められていたそうだ。しかし、<建設が追いつかなかったため、収容者の中から集められた志願者が、収容宿舎の建設や有刺鉄線フェンスを張る仕事に従事しました>、とガイドブックにある。

後年、強制収容所の建設に志願した者には、こういう「感謝状」が与えられたそうである。

「子どもの村(マンザナー収容所)」。カンゴ タカムラ作。紙、水彩絵の具。
<強制収容はすべての日系人が対象で、孤児たちも含まれていた>、とガイドブックに。

「冬のトパーズ収容所」。ジョージ マツサブロウ ヒビ作。カンヴァス、油絵の具・

「トゥールレイク収容所」。作者不詳。紙、水彩絵の具。

「サンタフェ収容所」。S.カワモト作。木の板、古いフェンスの支柱、絵の具。

「M.P.(憲兵)に撃たれたワカサ・ハツキ(タンフォーアン集合センター)」。チウラ オバタ作。紙、インク。
このスケッチ、1943年4月11日、と描かれた日付けが入っている。それよりも、犬に吠え立てられている。有刺鉄線の近くでもある。どうしたんだろう。ワカサ・ハツキなる日系アメリカ人、逃亡でも計てたのか。それでM.P.に撃たれたのか。胸締めつけられる思い、さまざま思い浮かぶ。

「写真の額」。クメキチ タニグチ作。くずの木材。
その額に入っている日系アメリカ人の皆さん、キチンとした服装で、皆さん笑っている。「地域社会の集まり」ということであるので、おそらく、日米開戦前、収容所に送られる前の写真であろう。

「水彩画の描かれた封筒」。ミキサブロウ イズイ作。紙、水彩絵の具、インク。
ミキサブロウ イズイは、薬剤師だったそうだ。彼の長男は、第442連隊戦闘団に加わったそうである。第442連隊日系部隊、死を恐れぬ部隊、アメリカ史上最強の部隊。イタリア戦線へ投入された。

「仏壇」。シンタロウ オオニシ作。薪の丸太、くずの材木、金属。

「千人針」。ヒサヨ イトウ作。布、水彩絵の具。
ガイドブックにこうある。<ヒサヨ イトウは、息子ススム・イトウのために千人針を祈りを込めて作りました。ススムはアメリカの第442連隊戦闘団(日系志願部隊)でイタリアでの戦線に加わりました>、と。
またしても、第442日系部隊へ志願した男が出てきた。442日系部隊を思うと涙が止まらなくなる。
彼ら日系アメリカ人、どう戦い、どう死んでいったのか、2年少し前、2010年12月4日のブログ「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」をお読みいただきたい。
彼らの合い言葉は、”Live with Honor、Die with Dignity”。「名誉を持って戦い、尊厳を持って死ぬ」、ということ。

それも含め生みださたものがこれ。
「尊厳の芸術」。

今月初め、福島での展覧は終わったが、これから5月に仙台、6月に沖縄、7〜8月には広島へ巡回される。近場の皆さまには、是非ご覧になることをお薦めする。
70年前の日系アメリカ人を通し、今の日本乃至日本人を考える一助になる。