ビル街のアジア。

「天竺」の時代は措くとする。明治以降でも、日本人とインドの人、心を通わせてきた例は多い。
岡倉天心とラビンドラナート・タゴール、新宿中村屋の相馬夫妻と革命家、ラス・ビハリ・ボース、東條英機とインド独立国民軍のスバス・チャンドラ・ボース。皆、魅力あふれる男たち。
昭和20年(1945年)、日本軍国主義が敗れた。その後、極東国際軍事裁判が開かれた。全ての被告の無罪を主張したのは、インド人判事のラダ・ビノード・パールであった。
昭和24年(1949年)、上野動物園へゾウが贈られた。送り主は、インド首相、ジャワハルラル・ネルー。今で言えばパンダに相当しよう。
1951年(昭和26年)、日本はサンフランシスコで講和条約を結び、国際社会へ復帰する。翌1952年、インドとの間で国交を樹立する。
だから、昨年は、中国との間には「国交正常化40周年」であったが、インドとの間には「日印国交樹立60周年」であったのだ。
昨年末、大倉集古館では、「インドへの道 美術が繋いだ日本と印度」展が催された。ビル街に囲まれた中でのアジアであった。遅ればせながら触れておく。

大倉集古館、大倉財閥の祖・大倉喜八郎のアジア美術のコレクションをその礎としている。我が国の私立の美術館としては、最初の美術館だそうである。
現在の建物は、関東大震災の後、昭和2年にあの伊東忠太が建てた。築地本願寺、湯島聖堂、その他オーという建造物を造った伊東忠太の作。

大倉集古館入口。

昨年末の特別展の折のポスター。

入口を入る。
見えているのは、「薬師如来坐像」、中国明時代。

仁王像がある。
南北朝時代のもの。

「大唐三蔵経詩話(部分)」。
チラシから。
南宋、13世紀。

ガネーシャ像。18世紀。

横山大観「釈迦と魔女」。

2階のバルコニーから下を見る。
中央上の彫像は、武石弘三郎作の「大倉鶴彦翁略伝碑」。
なお、上の方は、ホテル・オークラの車寄せ。

建物の周り、アジアのあちこちからきた物が点在する。
これは「竜頭」。中国・明時代。
元はといえば、梵鐘の釣手の部分に施されていた銅製の双竜。そう言われれば面白い。

「三彩宝塔」。中国・清時代。
三彩の八角五重塔。三彩、美しい。

重要美術品「八角五重塔」。朝鮮・高麗(14世紀)。
今の北朝鮮から伝来したものだそうだ。

重要美術品「五重塔」。朝鮮・高麗(11世紀)。
<古式を示す高麗王朝の多層石塔を代表するもののひとつ>、と解説にある。

文人石。
朝鮮の李朝期のもの。石人である。京都の高麗美術館の石人よりは少し大ぶりな感じがする。

「水盤」である。
さほど古いものでもない。中国・清時代のもの。
澱んだ水がたまっているその水盤の表情を見ると、何とも言えぬ感がする。

伊東忠太の建物だ。
伊東忠太、何年もに亘りアジアの地を経巡っていた。
六本木、溜池、虎ノ門、神谷町、都心のビル街の中のアジアであった。