求道者。

これから大阪、京都と巡回していくようだが、新槐樹社の東京展、2月の初中旬、乃木坂の国立新美術館で催された。会員である光田節子の作品を観に行くのも3年目となる。
招待のハガキが来た時から心づもりはしていた。おそらく、こうであろう、と。
まさに、その通りであった。
数年前、叔母の葬儀の折り、遠い親戚の光田節子と久しぶりに会った。絵を描いている、という。年をとってから描き始めた、という。好きな絵描きは? との問いに、マーク・ロスコとの応え。いきなりロスコか。とても驚いた。
その翌年、光田の属する新槐樹社東京展の案内が来た。彼女の作品、2点展示されていた。
≪私の山ーⅠー≫と≪私の山ーⅢー≫。
前者は緑っぽくて、後者は赤っぽいというか茶色っぽいというか、ともかくそういう色合いをしている。色を塗り重ねることによってマーク・ロスコを超えようとしている。ロスコの色を純化しているのか、と思った。
その翌年、つまり昨年はこうだった。やはり2点が展示されていた。
≪私の山ー瞬刻・朝ー≫と≪私の山ー一瞬の出会・Ⅱー≫。
前者は茶色っぽい。後者は青っぽい。タイトルの主題は変わらない。「私の山」である。その後が少し変わる。色合いも変わる。
「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」、と書いた。『1Q84』の中の言葉を使わせてもらった。”なんだかよくは解らないが、何か深いものがありそう”、という比喩の意であるから。
心づもり、腹づもりはしていた。
今年の新槐樹社展への光田節子の出品作はこれである。

左、≪私の山ーあかⅠー≫、右、≪私の山ーあおー≫。

燃え上がっているよう。

こちらは何と言えばいい。
そうじゃない。問題は色。
そうである。そうであるには違いないが、とても難しい。赤っぽかったり、青っぽかったりの「私の山」であるから。
ところで、アサビは芸大やムサビ、タマビへの予備校だと思っていたが、今はそうでもないらしい。大学ではないが、4年制の専門学校である。4年は研究科。そのボスは美術評論家の早見尭。1年近く前の自身のブログ「アートが丘」(最近は他のサイトへの寄稿やツイートに力点をおいている模様であるが)に、こういうことを書いている。引っかかる。
<人は天啓が下るかのようにしてある時突然なにごとかに気がついてしまうことがあるのではないだろうか。「そうだ、これだ!・・・・・>。
<だから天啓のアイデアを手に入れてからのアーティストの作品はワンパターンになる。いや・・・・・唯一のアイデアを手にしてはじめてアーティストになることができる通過儀礼を終えたことになる>。

<ワンパターンマンになったときワンパターンだからこその力をえて、アーティストとしての王道をまっとうできるパスポートを手にいれることになる>。
<以上のまえおきにしたがって「アーティストはワンパターンである」という命題もしくは先入観と偏見でアーティストをとりあげ直してみることにする>、として、<ワンパターンマン・アーティストでだれもが知っているのは、ジャン=フランソワ・ミレーをおいてはかはない。「晩鐘」だの「落穂拾い」だのを想い浮かべただけで・・・・・>、と続く。
毎年毎年「私の山」、早見暁の記す”ワンパターン”に引っかからざるを得ない。来年も再来年も、おそらく、あと10年ぐらい「私の山」は続くであろう。でも、その色調を反芻する。
と、求道者という言葉が浮かんでくる。
そうかもしれない。