東京駅(3) お雇い外国人頑張る。

<JRの東京の主要駅、つまりあの鉄道嚆矢の新橋駅から始まり、上野、品川、新宿、渋谷、池袋、さらに遠くは立川、八王子など、これらは皆明治の鉄道建設期にすでに誕生している。しかし中央に君臨する東京駅は、最も後発の主要駅であった。誕生は大正3年(1914)のことだ>(中西隆紀著『幻の東京赤煉瓦駅 新橋・東京・万世橋』 平凡社新書、2006年刊)。
「汽笛一声 新橋を〜」出た汽車は、どんどん西へ向かって走っていった。鉄路はどんどん延びた。京都、大阪へ。しかし、始発駅は新橋であった。鉄路はさらに延びる。下関まで。それでも、始発駅は新橋。熊本まで開通しても、始発はまだ新橋であったそうだ。
東海道の始発駅にして終着駅・新橋は、<明治5年(1872)から明治43年の赤煉瓦アーチ完成まで変化はなかった>(上掲同書)。 
”赤煉瓦アーチ”という言葉が出てくる。この”赤煉瓦アーチ”、東京駅の建設と切り離せない。赤煉瓦のアーチがあったからこそ東京駅の存在があった、と言ってもいい。
東京駅の設計者は、一昨日記したように辰野金吾である。しかし、その前段がある。明治期のお雇い外国人・フランツ・バルツァーの構想である。
島秀雄編『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文発見』(鹿島出版会、2012年刊)という書がある。一体どういう人が読むんだ、こういう本、という異な本。復刻版である。私は、図書館から借りた。1903年のバルツァーの論文「東京の高架鉄道」も再録されている。
その「まえがき」は、こう書き出される。
<島国日本の首都東京は面積ではベルリンを900ヘクタール上回る7249ヘクタールの市街地に、160万人以上の市民が住んでいる。とくに市街地がたいへん広いため、地域内の交通や東京を通過する交通の便が悪い。東京から西南の方に、横浜ー名古屋ー岐阜ー京都ー大阪ー神戸を結ぶ官営鉄道の東海道線は、東京市内の芝区(現在の港区の一部)の北東部にある頭端式の新橋駅が始発駅になっている>、と。
まず、明治期の東京の鉄道網を、島秀雄編『東京駅誕生 ・・・・・』の中の図を複写する。

東海道線の始発・終着駅は、新橋。その先はない。今の東京の主要駅はほとんどできている。東京駅を除き。
新橋から秋葉原や上野へ行くにはどうしたのか。

このような鉄道馬車が運行していた、という。
それでいいのか。多くの議論が尽くされたようだ。バルツァーの高架鉄道という構想も提起される、実行される。

1914年(大正3年)、ついに、新橋(烏森)から東京へ鉄路が延びる。東海道線の始発駅、東京駅となる。
でも、上野や両国、万世橋とはまだ繋がってはいない。

1926年(昭和元年)、東京駅と上野や万世橋、やっとつながったようだ。

バルツァーの東京駅駅舎のデザインである。
バルツァー、こう記している。
<私としては、ある程度、可能な範囲で日本の伝統的な城郭や寺社建築の効果的で利用できる要素を、とくに土台や屋根、棟、切妻などのデザインに用いることを提案したい>、と。
それが、このようなデザインとなる。

バルツァーによる長距離の降車口、ローカル線専用の後者口、そして、中央部の皇室専用の乗降口のデザイン。
”優雅な日本の城郭建築の様式”を取り入れたい、というバルツァー。
その後、東京駅の駅舎の設計を担った辰野金吾、バルツァーの考えの中、中央に皇室専用の乗降口を造る、というところだけを受け継いだようである。優雅な城郭建築様式でなく、西洋の建築様式を取り入れたものが造られた。

東京駅竣工に合わせ改装された新橋(烏森)駅。
やはり、赤煉瓦造。

万世橋駅。これも赤煉瓦造。

1914年(大正3年)の東京停車場乃図。
中川市郎、山口文憲、松山巌共著『東京駅探検』(新潮社、1988年刊)の見返し裏から。
オランダかイギリスか、いずれにしろヨーロッパのテイストが多分に感じられる、今に伝わる東京駅だ。
それでよかった。なかなかどうして、趣き深い駅だよ。