50枚の手書きPOP(続き×2)。

ジュンク堂7階の窓には、このようなパネルがつけられている。

「どうぶつ社の36年」の軌跡を記したパネル5枚。
これを縮小したコピーが会場に置かれている。しかし、字が小さくて、ルーペを使っても読むのは至難。私は、ジイーと睨んでいる。読めることもあれば、読めないこともある。


井沢紘生の手書きPOP。
井沢紘生、サル学者。どうぶつ社からも多くの書を上梓している。『ニホンザルの生態』、『下北のサル』、また、『アマゾン探検記』や『アマゾン動物記』。著書ばかりでなく、翻訳書も幾つも。
井沢先生、手書きのPOPの中で、<現在の研究者の中では絶滅危惧種、・・・・・>、とご自身のことを記している。
久木亮一によれば、井沢紘生、京大のサル学の学者であるが、その京大サル学のコンサバに収まりきらない学者でもあるそうだ。井沢紘生自身が、POPの中で”絶滅危惧種”と書いているのも、そのようなことを示しているのだろう。

その横には、このPOP。
<3.11.后の金華山を井沢紘生先生と歩きました。・・・・・。日本野鳥の会 飯塚・・・>、と記されている。
ウヌッ、飯塚さん、一昨日、私が、日本野の次の字が読めなかった人じゃないか。日本野鳥の会の人なんだ。カラス以外、さしたる鳥を知らない私、”鳥”の字が読めなかったんだ。そう言えば、”日本野鳥の会”ってあったよな。
それはそうと、日本野鳥の会の飯塚さんは、井沢紘生先生と3.11.後の金華山へ行ったんだ。”鳥”の字が読めない私は、もう一度小学校へ行かなくちゃ。
そんなことより、久木がこういうことを言っていた。
「このPOP、みんな矢寺さんがやってくれたんだ。彼女がそれぞれの人に依頼してくれたんだ」、と。そして、「オレは、何にもしてないんだ」、と言う。
今月14日の朝日新聞にどうぶつ社のさよならフェアのことが載り、久木ばかりじゃなく、ジュンク堂の矢寺さん(今は、副店長となっている)のことが出てきたのに驚いた。久木のどうぶつ社のフェア、仕掛け人は、矢寺さんなのだ。
初めて矢寺さんに会ったのは十数年前。久木に紹介され、酒を飲んだ。リタイアした後の私、池袋にも行かなくなった。ジュンク堂の客でもなくなった。久しぶりで矢寺さんと話した。
神戸発祥のジュンク堂が東京へ攻め登ってきたのは、1997年だそうだ。「もう15年になります」、と矢寺さんは言う。矢寺さん、「もう東京のほうが長くなります」、と言う。
矢寺さん、ジュンク堂の東京進出にともなって神戸から来た人なんだ。と言うことは、矢寺さん、30年とは言わないまでも、それに近い年数をジュンク堂で過ごしているんだ。ショートカットの矢寺さん、まだ30代後半か、と思っていたが、どうもそうではないようだ。10歳は若く見えるよ、ホント。
日々、学者連中と付き合っていると、精神ばかりじゃなく、肉体も若くなるんだ。そうなんだ、きっと。

今一度この棚を。
36年、約200点、久木の宝だ。

そのタイトルを残しておこう。何とか読めるのではないか。
上段右上から発行順で並んでいる。
どうぶつ社発行本の第一号は、水原洋城著『ニホンザルものがたり』。1976年の刊行、ロッキード事件のあった年。
以下左の方へ、発行順に並んでいる。『ココ、お話しよう』の後は、次(下)の写真の上段へ続く。

背表紙が見えているのは、下段左下の『オコジョの不思議』まで。1995年の刊行本である。ここまで、どうぶつ社から出た本の約半分強。この後のものは、後ろの方に並んでいる。

帰ろうと思ったら、少し離れたところにこういうコーナーがあった。
本というもの、商品である。しかし、ダイコンやサンマとは違う商品である。だから、こういう発想も出てくる。ジュンク堂副店長・矢寺範子さん、徹頭徹尾、本を生かす。

汚れ有りとか、折れ疵有りとか、小口シミとか、背表紙キズとか、シミ有りとか、と記されている。
そうではあるが、とてもいい本なんですよ、と訴えている。
そうなんだよ、これだけ多くの人が、その幕引きを惜しんでいるのだから。

忘れるところであった。これを載せなきゃ。忘れるなんて、とんでもない。
”表彰状”である。
動物一同を代表して田中豊美が描いたこの絵、どうぶつ社への、久木亮一への鎮魂の証。
でも、久木、気軽に、「ありがとさんよ」で受けとってもらいたい。この表彰状。
「どうぶつ社の36年」、12月10日まで、池袋ジュンク堂で開かれている。ご用とお急ぎのない方は、ぜひに。