奥多摩歩き (7) 多種多様。

12時にJR御嶽駅前に集まり、5時少し前、東青梅駅近くの居酒屋へ入る。その間、5時間。
皆が集まった後、多摩川ベリで握り飯を食ったり、御岳美術館内の喫茶店でコーヒーを飲んだりもしていたから、実際はもっと短い時間。
その中で、ずいぶん様々なものを見た。川合玉堂の精緻で風格のある絵、高村光太郎や浅井忠の教科書に出てくるような作品、小中学生や保育園児の巧まずして素晴らしい作品。
美術館や美術品ばかりじゃない。
深い色を持つ清流が、所により激しく、また緩く流れる御岳渓谷。大きな岩が点在する所では、青い流れは白波に変わる。
何より驚くのは、それが東京のJRの駅のすぐ近く、歩いて5〜6分の光景であることだ。
だが、それはまだ前半。後半があった。
旧青梅街道沿いの宿場町・青梅宿の町歩き。普段見慣れぬ街並みがあった。久保板観の映画看板とレトロな家並み。
ずいぶん様々なものを見た。5時間足らず、4時間ちょっとの間に。そう離れた場所じゃない所で。
変化に富んだ多種多様なものを見た。
ところで、村上春樹の『辺境・近境』(新潮社、1998年刊)の中に、アメリカ大陸を横断する話がある。
村上春樹、カメラマンと2人、レンタカーのボルボで、大西洋岸から太平洋岸まで、ボストンからロスアンジェルスまで旅をする。走行距離8000キロ、2週間を超える旅なんだ。
<道筋は有名な南回りの「ルート66」コースではなくてあくまで渋い玄人好みの(かどうかは知らんけど)北回りのコースである>、と村上は記す。
これが、何というかどういうか、面白いことが何もないヌボーとしたものなんだ。
ボストンからカナダのトロントの友だちの所に少し寄り、オハイオ、インディアナを通ってシカゴに行く。<ここまでは大して面白いことは何もない。はっきり言ってしまえば退屈きわまりない旅である>、とある。
シカゴを通り抜けてウィスコンシン州に入っても、こう。<正確に表現するならむしろ僕らの旅行をとりまく環境は「より退屈になった」というほうが真実に近いかもしれない>、と村上。
まず、車のラジオから流れる音楽が、カントリー・ミュージックばかりになる。<ジャズやラップ・ミュージックはどれだけカー・ステレオのサーチボタンを押しても聴こえてこない>、という状況。さらに進めば、アイオワでは、<たまにすれ違う車の大半は家畜運搬車かピックアップ・トラックである>。
さらに、ミネソタ、サウス・ダコタ、アイダホ、ワイオミング、ユタ、アメリカの中部から西部へ。毎日、同じようなモーテルに泊まり、同じようなものを食う。そして、ロスアンジェルスへ着く。
<「ああ、これでようやく我々はアメリカ大陸を横断して、西海岸に到達したのだな」というような深い感動は、そこにはない>、と村上は記す。
この紀行記の、村上の最後のフレーズはこうである。
<こう言ってしまうと身も蓋もないけれど、「やれやれ、ここは本当に巨大な国であり、本当に長い旅行だったなあ」と>。退屈だ退屈だ、と言いながら、春樹節でついつい読まされてしまう。
しかし、2週間を超える変化の少ない8000キロの旅に比べ、5時間弱の奥多摩のぶらぶら歩き、変化に富んでいた。
居酒屋に入ると、2人の男が万歩計を持っていた。1万5千歩前後。共に、家を出た時からのものだから、奥多摩での歩数は、1万数千歩であろう。10キロ弱、7〜8キロは歩いたものと思われる。
広大で退屈ばかりのアメリカと異なり、奥多摩の5時間弱で7〜8キロ、多種多様、変化に富んだものだった。
美術館や渓流は別としても・・・・・

せせらぎの里美術館から御嶽駅へ戻る道端には、このような立札が何か所かに見られた。
これも東京だな、と思う。

青梅宿には、こんな建物もあった。
人間でいえば、おでこの辺りにスリーダイヤが付いている。すべての窓は、閉まっているというより、板で打ち付けられているようだ。しかし、周りの庭木の手入れは為されている模様である。三菱グループ本体の何かであるかもしれない。

8時前、居酒屋を出て駅の方へ歩く。
交差点では、カバンを持ったサラリーマンらしき男が何人もいる。我々ジジイ連中は夕方から飲み、帰る時間であるが、彼らは仕事から帰る時間であるらしい。
それはそうと、向こうの方がボーと赤い。

焼き鳥屋だ。”炭火やきとり 一串90円〜”って書いてある。
素晴らしい美術品もあれば、何とも言えぬ渓谷もあり、遥か昔を思い出させてくれる街並みもある。ほんのすぐそばに、蝮もいれば焼き鳥屋もある。
凄いんじゃないか。この多種多様。

東青梅、8時前の電車で帰る。
ここ、東京の西の外れなんだ。時間がかかる。