奥多摩歩き (6) 青梅宿(続き)。

青梅街道、内藤新宿で甲州街道と分かれ、甲府に至る。青梅宿は、その半ばあたりか。

新青梅街道もあり、ここらあたりは旧青梅街道である。

街道沿いに延びる宿場町、案外長い。
見上げると、このようなものが下がっている。「ぶらり 青梅宿」。ぶらつくにはもってこいの町である。

自転車が走っている。

向こう側にも自転車が。後ろの家々もレトロ感漂う。
それにしても、車がいない。

いや、自動車が走っていないわけじゃない。このガラス戸にも映っている。
しかし、車より建物。この1階のガラス戸や、2階の連子窓の方へ目がいってしまう。「宿場町だなー」ってつぶやきそう。

青梅宿の街道筋、映画看板ばかりじゃない。「ホー」という家もある。
ここは、剣道具屋である。剣道具の専門店なんて初めて見た。
店の中には竹刀や防具が並んでいた。剣道具一本でやっていけるのか、と思う。でも、やれるのであろう。ずっと昔からやっているのであろうから。さすが、青梅宿、宿場町。

この”陶芸”、”工芸・骨董”と書いてあるギャラリー、中を覗いたら、店主と思しき男、三味線を弾いていた。
さすが、だ。宿場町の古道具屋、ゆとりがある、な。

街道筋から少し入ったところに、このような家があった。
家の周り、ツタが絡まっている。”とんかつ”、”お食事処 もりたや”と書いてある。でも、店は閉まっている。地元に住む案内役の山本宣史、「ここは、お客のいる時だけ開くんだ」、と言っていた。
「そうなのか」、と応えたが、今、考えるとどこかヘン。不思議である。
”お客のいる時”ってどうして分かるのか、と思う。おそらく、予約のみ、ということであろう。しかし、それでやっていける、ということが、また不思議。
それはそうと、この光景、右下に歩き去る男がひとり。何となく山頭火を思う。
     うしろすがたの しぐれてゆくか

ここは、米屋である。店先には、絵が描いてある。
この写真を撮っていると、この店のオヤジさんが出てきた。そのオヤジさん、話好きな人であった。
「この絵は、明星大学の学生さんが描いてくれたんだ」、という。明星大学のキャンパスがこの近くにある、という。映画絵ではあるのだろうが、何か、誰かは分からない。ずっと見てきた久保板観の映画看板とは、そのタッチが異なる。明星大学の学生が描いたものだから。
「ここいらは、古い家が多いんだ」、とその米屋のオヤジさんは言う。「ウチも古くからの家だったんだが、昭和45年に建直したんだ」、と話す。そして、前の家は呉服屋だった、と話す。
「昔っからの呉服屋だった。番頭さんが2人いて、多くの小僧がいた」、と話す。その家、今は廃屋となっている。青梅宿でも、番頭や手代、丁稚などを抱える呉服屋、成り立たなくなっちゃったんだ。

途中にこういう標識がある。
右へ800mが青梅駅。左へ620mで東青梅駅。

街道筋を歩いていると、チリンチリーン、と音がした。
リヤカーを曳いたアイスクリーム売りがいた。この日は、8月末、とても暑い日であった。

年期の入った豆腐屋もある。
旧青梅街道の宿場町・青梅宿、味わい深い。

東青梅に近づくにつれ少なくなっていた映画看板、また出てきた。
オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」。

これは、「オズの魔法使い」。
しかし、「ローマの休日」の看板にしろ、この「オズの魔法使い」の看板にしろ、久保板観の描く絵ではない。サインもない。誰か別人の手になるものなんだ。
ヒョットすると、米屋さんの絵と同じく、明星大学の学生が描いたものかもしれない。

東青梅駅の近くに、このような標識が出ていた。
右の方へ行けば奥多摩、左上の方へ行けば埼玉の入間、上の方へ真っすぐ行けば新宿なんだ。
私たちは、案内役の山本が予約していた居酒屋へ入った。これから飲み会だ。
5時少し前。8月末、夏の日。陽は、まだ天高くあった。