判定競技。

陸上や競泳は、勝ち負けがはっきり出る。先にゴールへ入ったり、遠くへ飛ばしたり、飛んだり、誰が見ても一目瞭然。
寺川綾、入江陵介、鈴木聡美の3人が銅を取った今日未明の競泳は、まさにその典型。それにしても、3人が3人共よくやった。立派な銅メダルである。
しかし、銀メダルを取ったのではあるが、体操男子団体には、イヤーな感を覚えた。
最後の内村航平の演技、下り技がクニャッとなった時には、何と、万事休す、と思った。NHKのライヴ画面にも、”日本、体操男子団体メダルを逃す”のテロップが流れた。だが、日本の抗議で、日本、4位から2位となった。
この判定は、正しいのであろう。しかし、銀から銅となった地元・イギリスの観客からはブーイングが起きた。当然だ。
ここには、人の目で見て優劣を決める、判定競技の難しいところがある。メダルの話にとどまらない。当該国の国民感情を、刺激してしまう。
それというのも、試合ではもちろん、練習でもミスを犯すことがなかったという内村航平のミスにある。しかし、それは致し方ないこと。どんな人にも、完全はない。内村航平にもミスはあろう。しかし、その後の内村航平のこの言葉はいただけない。
「4位でも2位でも、同じなんだ」、という言葉、気持ちよくは聞けなかった。俺たちは金を目指していたんだ、という悔しい気持ちは解る。しかし、この言葉には、どこか驕りの感情を感じる。その心根が残念だ。
一芸に秀でたどころか、誰しもが認める世界一の体操選手・内村航平もまだ若い男、心の平穏を求めるのは酷、というものだろう。それと言うのも、人の目による採点によって判定する、というところにある。
この人の目による判定、なにも体操に限らない。柔道もそう、と言える。
柔道の旗判定、まさにそう。
5分間で勝負がつかず、ゴールデン・スコアによる延長戦でも決着がつかず、という場合の旗判定、まさに人の目による判定である。微妙な判定、多くある。
柔道の判定、そればかりではない。一本、技あり、有効、これらも人の目による判定である。だから、時として”ンンッ?”という判定が下る。
一本取ってナンボの柔道でさえ、判定競技となっている。
それでいいのか、という思いはある。でも、そこから生まれるさまざまなドラマを楽しむ、ということも派生しているな、ということも考える。