パリ+リスボン街歩き  (43) ギュスターヴ・モロー美術館(続き)。

昨日も記したが、ギュスターヴ・モローが死んだのは、1898年。
その何年も前から、自らの作品を展示する美術館の建設を考えていたモロー、1895年、ラ・ロシュフコー街14番地の自宅をその場所と決め、増改築に取りかかった。
1996年と97年は、美術館の準備のために費やした。1897年9月10日付けの遺言状により、モローは、自宅、アトリエ、すべての作品を国家に寄贈した。
ギュスターヴ・モローの願いは、国家に通じた。国立ギュスターヴ・モロー美術館、1903年1月13日、正式に開館した。
以前の私は、美術館や展覧会へ行くと、原則としてその図録を求めていた。しかし、何年か前から、その原則が反転した。原則として、図録を買わなくなった。もちろん、物事には例外はある。とても興味深い、と思った時、また、とても小さいものがあった時には求めることがある。
ギュスターヴ・モロー美術館にも小さな書があった。しかも、日本語の書。ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル著、隠岐由紀子監修『ギュスターヴ・モロー 夢を編む画家』(1998年、創元社刊)。
創元社の”知の再発見双書”、文庫本の兄貴分といった感じの体裁なんだが、元はと言えば、ガリマールの叢書を持ってきたもの。その内容の濃さ、バカにできないんだ。
この書の著者、ラカンブルもその当時のギュスターヴ・モロー美術館の館長。ギュスターヴ・モローのことを、こと細かに教えてくれる。上に記した年月日はもちろん、これから記載のことごと、その多くは、ラカンブルの書に教わったことが多い。
ギュスターヴ・モローのプライベートな居住室から、アトリエの方に入ろう。

共に白髪のこの二人が観ているのは、1884年の年記のある、未完の大作『キマイラ達』。
<母を失くしたモローは絶望のあまり何カ月も絵筆をとれず、この作品は手つかずにおかれた>、とラカンブルは記している。


その横の作品、この写真では右端の作品は、『神秘の花』。
白いボードを持った人が何人もいる。作品の解説が書いてある。日本語のものもある。

その左の方。
前のイーゼルに乗っている左の作品は、『ヴィーナスの誕生』の下絵。ギュスターヴ・モロー、未完には終わったが、若い頃、フィレンツェのウフィツィ美術館でボッティチェリの模写をしてるんだ。だから、であろう。

その後ろに隠れているのは、これ。
ギリシャ神話の英雄、ヘラクレスを描いた『テスピウスの娘たち』。

さらに左側は、こう。

ギュスターヴ・モロー、すさまじい数のデッサンをし、多くの下絵を残している。

これも、そう。下絵である。

アトリエのこの階、こちらを見ると、このよう。

後ろを見ると、このようだ。
螺旋階段がある。

<大アトリエと有名な螺旋階段がつくられたのは1895年のことである>、と日本語に訳されたジュヌヴィエーヴ・ラカンブルの書にはある。