パリ+リスボン街歩き  (27) セーヌ左岸(続き)。

昨日は、クリュニーの近辺のセーヌ左岸の写真を幾つか載せようか、と思っていた。しかし、1枚の写真を載せることもなかった。荷風や金子光晴のことを思い出してしまったのが、いけなかった。ついつい横道に逸れてしまった。
セーヌ左岸、永井荷風の物語の主人公は別として、昨日触れた他の人たち、皆さんさほど金に縁がない人たちが多く住んでいる。そういう人たち、皆、魅力的で面白いのだから、正直言って、困ってしまう。ついつい脱線もしてしまう。
金子光晴など、はなからさほどの金も持ってない。どうやって暮らすんだ。でも、何とかなるんだ。才覚もあるが、生き延びる。この何十年後、今から40年近く前、神田の共立講堂だか一ツ橋会館だかの講演会で、若い女性に手を引かれた金子光晴を見た。
松尾邦之助も親から2年分の生活費はもらってきたが、その後は金がない。石黒敬七など、パリで柔道を教えるんだ、と乗りこんだものの、持ってきた金などすぐに無くなってしまう。第一、一言のフランス語も知らないでパリに来る。いや、凄い、魅力的。
山田風太郎の『巴里に雪のふるごとく』の主人公・成島柳北は、東本願寺の若い法主の通訳兼カバン持ちとしてのパリ滞在なので、さほど金に困っているということではないが、宿を右岸から左岸に変える。初めは、4つ星プラスの超高級ホテルに泊まったことが、その根底にはあるのだろう。
昨日記した中では一番若い今の人、玉村豊男が奨学金をもらいパリへ行ったのは、1968年である。東大の学生であったから、多少の語学はなんとか、という程度であったろう。しかし、玉村豊男がパリへ行ったのは、1968年である。パリでは革命が起きていた。学校の授業などは行なわれない。学生たちは、カルチェ・ラタンの敷石を剥がし、権力へ抵抗していた。
学校へ行かないのはいい。でも、何たること、玉村豊男はノンポリなんだ。カルチェ・ラタンの敷石を剥がし、お巡りに投げつけないんだ。そういう動きとは、距離をおいていたそうだ。
つまらないヤツだな、と思う。同時期、同じ場に居合わせた一世代上の五木寛之でさえ、敷石を投げはしないものの、高ぶる心をあちこちで書いているのに。
でも、それはそれ。玉村豊男はそういう男だが、彼の『パリ 旅の雑学ノート』が、素晴らしい書であることにかわりはない。