親父の死。

昨日、何人かの人から連絡をもらった。メールや電話で。「お前、大丈夫か? 急に音なしになって」、と。
21日に“首が痛い”、と書いて1週間になる。たしかに、首が痛い。首がさほど回らない。首が回らないのは、何方にとってもよくない譬えであるが、物理的に回らないのも辛い。
気が滅入る。碌でもないブログとはいえ、それを書く気力も失せる。で、暫らくお休みとした。近所の医者に通い、電気と牽引を受けている。
しかし、1週間少し、休みとしたのは首の問題だけではなかった。
実は、先週半ば、私の親父の一人が死んだ。通夜、葬儀などに出るため先週末、3日間留守にした。
10年少し前、他の場に書いたことがあるが、私には親父が3人いる。
一人は、実の親父。あと二人は、叔父である。一人は、親父の実の弟。あと一人は、お袋の妹の亭主。
実は、私が実の親父とひとつ屋根の下で暮らしたのは、小学校時代の何年かと大学入学前後の1〜2年の、計5〜6年ぐらい。それ以外、もの心ついて以来高校を出るまでは、二人の叔父の下で暮らした。それぞれの下で。
実の親父は、50年近く前、53で死んだ。若死であろう。あと二人の親父は、長生きであった。5日前亡くなった実の親父の弟である叔父は、満96歳、間もなく、97歳という年。充分に生きた。50年以上前、ヤクザな兄貴の子供である私を育ててくれた。だから、私にとっては親父である。
若い頃、満洲での生活をしていたこの叔父・私の親父の一人、日本の敗戦後引き揚げできた後、印刷業を営む傍ら、中国残留孤児問題に取り組んだ。中国には何度も行き、多くの残留孤児の身元引受人にもなっている。
通夜の折り、叔父の中国残留孤児問題の後を託されている人がこう言った。内閣総理大臣や厚生大臣からの感謝状、表彰状がある。それを並べてくれ、と。従兄弟やその息子が探しに行ったら出てきた。総理大臣からのものは、村山富市の時のものであった。
私の親父の一人・叔父は、奈良の老人ホームに入っていた。帰りの車の中で、従姉妹のJが言うには、ここは、日本の優良老人ホームベスト10にも入っていたそうだ。確かに、何度か訪れた時の印象もいい。職員の人たちの対応も含め。
老人ホーム内の会場で行なわれた通夜や告別式、感動した。
親族の焼香が終わった後、さまざまな人が焼香した。終わりの方に、車椅子の人が多く出てきた。この老人ホームに入っている人々。明日、この人が亡くなってもおかしくないな、という人が何人も焼香に訪れていた。それを見て、何故か、気持が高ぶった。死が間近に迫っているのに、生きている生、ということを思い。
今,お棺の中に入れることが許されている物は、限られているそうだ。眼鏡なんかもダメだそうだ。叔父の棺には、中国での写真や著書も入れられた。
叔父、中国からの引き揚げがらみで、10数冊の書籍を上梓している。本を出すことが好きだった。棺の中に何冊か入れた。5〜60年前、さらにその前のことを記したものを。
翌日、あと一人の親父・叔父を訪ねた。こちらの叔父は、満98才。身体はあちこち問題があるが、頭の方はしっかりしている。
大酒を飲んでいたのだが、酒が飲めなくなった。飯も食いたくない。老化だ、とこのあと一人の親父・母方の叔父は言う。夜寝て、朝起きない、そういう死だと。いい死じゃないかな。叔父であり、親父の一人である98歳の老人と、自然な死について話しをた。
100歳近い叔父たち。死ぬも生きるも、何と言ったらいいのかよくは解からない。
だが、5日前、100歳近い一人の親父が死んだ。