40年じゃ足りないか。

40年なんて時間では、とても、どうにもならない。あと40年かかっても、おかしくないかもしれない。
沖縄の本土復帰40年の記念式典が行なわれた。内閣総理大臣・野田佳彦はじめ三権の長が沖縄へ飛んだ。駐日米国大使・ルースも式典に参加した。
沖縄県知事・仲伊真弘多、「普天間の県外移設」を求めた。野田佳彦の挨拶は、こう。「抑止力を維持しつつ基地負担の早期軽減を進めて行く」、と。にっちもさっちも行かない状況の下、これ以外どういう言葉がある。
巨大化する中国の軍事力、その極東の現状、米軍の抑止力に頼らざるを得ない、と考える人は国民の過半である。必然的に、米軍の基地を容認する。当然だ。しかし、今なお、日本国内の米軍施設の74%が沖縄に置かれている、という現実に対しては、多くの日本人、頬冠りを決めこんでいる。ズルイ、きたない。
ヒョッとすると、あと40年後にも、本土の各都道府県は、ズルくて汚い態度を取り続けているかもしれない。キタネー、よ。
私の考えは、以前にも書いた。沖縄の米軍基地、なかんずく普天間基地を、東京か大阪か名古屋へ持ってくるべし、というもの。
アメリカと抱き寝の日本、その大都市がリスクを担う程度の覚悟を示さねば。
でも、日本への復帰40年にして、3/4の米軍基地を押しつけられている沖縄の状況は変わらない。
太平洋戦争で唯一の地上戦が行なわれた沖縄、沖縄県民の戦没者は、9万4千人とも、15万人とも言われる。軍人ばかりでなく沖縄の一般の人たち、圧倒的な戦力の米軍と戦った。で、この死者の数。
沖縄の海軍守備隊司令官であった大田実少将が、自決直前に海軍次官宛てに打った電文にこうある。
<沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>、と。
沖縄県民に対し、後世、特別の高配をしてもらいたい、というものだ。それに対する本土・ヤマトの答えは、これ。米軍基地の4分の3を沖縄に押しつける、というもの。汚い。キタネー。
元知事の大田昌秀は、今日の式典には出席しなかったそうだ。それでいい。ヤマトが目を覚ますまでは、そのような気骨のある男がいることが必要だ。
それにしても、ヤマトの各都道府県の首長、だれか一人ぐらい、「沖縄の米軍基地の一部、本県に持ってきましょう」、という人物がいないのが残念だ。

1年前、新宿で映画『GAMA 月桃の花』の上映会があり、この作品の原作者である大城将保を囲んで、一杯飲んだことを記した。大城将保、学生時代のクラスメート。米軍統治下のパスポートを持って本土の大学へ来た男。その後、沖縄の日本復帰まで、沖縄には帰らなかったそうだ。
それ以後、歴史学者として、作家として、沖縄とヤマトの関係を追い続けている。
それはそれとして、上の写真の花、月桃の花である。
1年前の『GAMA 月桃の花』の上映会の折り、会場に飾られていたもの。この映画の音楽を担当した海勢頭豊が、東京へ来る日の朝、自宅の庭から切り取ってきたもの。沖縄を象徴する花である。
それと共に考える。”月桃の花”、単に”沖縄”というよりも、”沖縄戦”を象徴する花ではなかろうか、と。
40年じゃ、まだ足りない。沖縄の闘い、まだまだ続く。