パリ+リスボン街歩き  (16) ポンピドゥー(続き×4)。

20世紀初めのパリ、キリコやカンディンスキーに限らず、ピカソもシャガールもモジリアニも、その他大勢の若者も、我も我もと集まってきた。1901年、スイスで生まれたアルベルト・ジャコメッティも、若くしてパリへ出ていく。
絵描き仲間ばかりじゃなく、当然、アンドレ・ブルトンとも知り合う。アルベルト・ジャコメッティ、シュルレアリストとなっていく。当然の帰結である。
ところが、その後のジャコメッティ、不思議な世界に入っていく。具象と言えば具象、という世界に。具象回帰、と言えば、そう。但し、見る対象を見れば見るほど、小さくなっていく。究極は、無くなっちゃう。無くならないまでも、だんだん細くなっていく。
針金のように細い彫刻、ジャコメッティと言えば、そうなった。
ポンピドゥーでの今のジャコメッティの展示、見応えがある。一角全面すべてと言うか、ある空間すべてというか、ジャコメッティの作品だけで構成されているところがある。

この一角、すべてジャコメッティ。

こちらの一面も。ジャコメッティのフォルムである。

その一部を拡大すると。「歩く人」のバリエーション。小さな作品だが、やや前かがみになって歩く人、ジャコメッティ独自の形。

タイトルは、「鼻」。
いかに鼻が高い西洋人でもこのような人はいないが、ジャコメッティが突きつめていくと、だんだん細長くなっていく。下に落ちる影も鋭い。

この一角に入ってきた人、誰しもがジャコメッティの世界に浸ることができる。

ジャコメッティ自身、思索の人であった。何故それほどまでに、と思うほどに突きつめる。半世紀ほど前、哲学者の矢内原伊作が何年か、ジャコメッティのモデルとなるために、パリのアトリエに行っていた。”今年も行って、モデルとなった”、という記事が、その頃の新聞には出ていたような記憶がある。
ジャコメッティも矢内原伊作も、ほっそりとしたタイプであった。思索の人、太っていてはサマにならない。この作品ほどに、とは言わないが。

ジャコメッティ、彫刻家と言い表されるが、平面作品も多い。
それはそれで趣きのあるものであるが、やはり、この右手の細っこい作品や、左のいかにもジャコメッティという作品に惹かれるな。
ポンピドゥーでのジャコメッティ、ここで終わろうと考えていた。
それでいいな、それが当たり前だ、と。
しかし、パソコンのキーを打っている内に、少し気が変わってきた。”じゃこめてい”のことにも触れようか、と。
”じゃこめてい”、正しくは”じゃこめてい出版”、という出版社である。この出版社、今も、ある。但し、代替わりをしていて、以前の”じゃこめてい出版”とは異なる。私が知るのは、40年ぐらい前から20年近く前までの”じゃこめてい出版”。
そこの編集長は、私の学生時代からの友だちであった。因みに、”じゃこめてい出版”のオーナーも私の友だち。彼ら二人、出版社を立ち上げる折り、その名を、ジャコメッティに拠っていたんだ。それはそれでいい。”じゃこめてい”の編集長もオーナーも、私の古い友人であるこの二人、20年近く前と10年近く前に、共に死んでしまった。
先ほど、”じゃこめてい出版”の編集長を検索してみた。ひょっとしたら、何らかのことがあるのかな、と思って。
私は知らなかったが、今、気鋭のイラストレーターに小野寺光子さんという人がいるそうだ。彼女のブログに、”じゃこめてい出版”の編集長・青木太郎のことが描かれている。それが、何ともよく、青木のことを捉えている。
小野寺光子さんのブログ、こういうことが書かれている。
<青木さんは、会社の名前通り、アルベルト・ジャコメッティの彫刻そっくりのシルエット、電信柱のように立っていました。その顔色は、土気色。常に苦虫を噛み潰したようなしかめっ面。・・・・・>、と。
いや、小野寺さん、青木のこと、よく捉えている。こういう男であった。しかし、突然、死んじゃった。
ジャコメッティと聞く度、”じゃこめてい”のことを思い出す。