清順の世界(2) 陽炎座。
大正という時代、短くはあった。
<しかし昭和天皇が、実父につき公的な場で言及することはほとんどなかった。・・・・・実際に昭和天皇は、生涯を通して明治天皇に対する深い尊敬の念を抱き続け、その気持を公の場で表明することもあったが、大正天皇に対してはほとんど沈黙を保った>、と原武史がその著『大正天皇』の中で述べるように、また、<抹殺された「大正」>、とも記すように、大正という時代、昭和天皇ご自身が封印された面もあった。
畏れ多いことながら、そう書く理由は私にもあるが、今は深入りはしない。昭和天皇のとても人間的なお人柄、とのみ記す。
しかし、偉大な明治と激動の昭和に挟まれた大正時代、さして暗い時代ではなかった。むしろ、軽やかな感じがする。モダンな感じもする。大正ロマンでもあり、大正デモクラシーでもなかったか。デカダンも、そのような背景があってこそ。暗くジトゥーとした中では、デカダンの花など咲くワケはない。
昨日の『ツィゴイネルワイゼン』の主人公、中砂も青地も、いわば高等遊民、デカダンな生活を送っている。士官学校の教授であり、ドイツ語の書を読み、サラサーテのレコードを聴く、という境遇でも。大正時代ならではの生活だ。
ところで、川本三郎という男は、面白い男である。東京山の手の生まれであるが、40を越える頃から隅田川の方、下町に、なぜか無性に心惹かれるようになったそうだ。
で、隅田川沿いを歩くようになった川本三郎、この川べりを愛した一群の文学者がいたことに思いを巡らせる。永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、といった東京生まれの文学者、さらに、東京生まれではないが、隅田川とは無縁でない佐藤春夫らの大正期の文学者。
川本三郎、大正時代の文学に思いを巡らせる。大正という時代に。佐藤春夫、永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、さらには、室生犀星、梶井基次郎といった人たちだ。
川本三郎著『大正幻影』(1990年、新潮社刊)に川本三郎、こういうことを書いている。<「幻影」を求めた大正作家たち>、というところから何か所か引こう。
<佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風らの作品を読んでいて気がつくひとつの特色は作品の場が、外部とへだてられた密室、閉ざされ孤立した空間に設定されていることが非常に多いことである>。
<ここで佐藤春夫がいっている、「恍惚」「夢」は谷崎淳潤一郎のいう「不思議」に重なり合い、さらには芥川龍之介が・・・・・表題としてつけられた印象的な言葉「蜃気楼」とも触れ合うものだろう>。
<「濹東綺譚」は現実の玉の井を舞台としながらも・・・・・すでに現実の玉の井を越えてしまっている。ここにある町を場としながらも永井荷風はここにはない町を幻視しようとしている>。
大正という時代、「抹殺された」時代ではあったが、「夢」、「恍惚」、「幻」の時代でもあったのだ。
”清順の世界”、鈴木清順に戻る。
川本三郎の書に引っかかり、焼酎のお湯割りもだいぶ飲み、私は何をしようとしているのか。
そうだ、鈴木清順の『陽炎座』について、何かを書こうとしていたんだ。鈴木清順を、谷崎潤一郎や永井荷風と同列の芸術家に据えよう、と考えていたのかもしれない。
『陽炎座』、鈴木清順が『ツィゴイネルワイゼン』の翌年、1981年に撮った作品。
主演は、松田優作だ。大正末期、新派の劇作家、松崎春孤に扮する。
松田優作演じる主人公、美しい女たちとの愛と憎しみの渦に翻弄される。
鎌倉の町で、付け文を拾う。「金沢、夕月楼でお待ち申し候」の手紙。金沢へ行く汽車には、パトロンの男も乗っており、「亭主持ちの女と若い男の心中を見に行く」という。
しかし、主となるテーマは、”三度びお会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません。それでもお会いしたいのです”、というフレーズ。
そうなる。
金澤へ行く汽車には、主人公のパトロンの玉脇という男も乗っている。このこと書いたか。原田芳雄が扮するアナーキストも出てくる。大友柳太郎が扮する老人形師も出てくる。博多人形裏返しの世界、なんてものも見せてくれる。
ま、筋書きなど、どうでもいい。いずれにせよ、解かりづらい。
此岸と彼岸、”こちら”と”あちら”。現世かあの世か。これは、松田優作と大楠道代。大正浪漫を描けば、こうなるか。
迷宮、夢うつつ、夢の中、そのような世界が紡がれる。