寅さん記念館。

<日本人の心のふるさと”寅さん”のすべてがあります>、と謳っている寅さん記念館へ入る。

実は、この寅さん記念館へ入るのは2度目である。5年ほど前にも入った。何じゃこれ、と思った。できの良くない紙芝居みたいで、面白くなかった。
それが、今回は面白かった。思うに、5年ほど前には、理解できなかったんだ、私の頭では。
展示物は同じであろう。退化こそすれ、私の頭が良くなっているはずはない。感覚の許容度が少し変化した、ということはあるかもしれない。

”くるまや”のセット。
松竹大船撮影所のセットをここへ持ってきたそうだ。

”くるまや”の茶の間だ。
寅さん、タコ社長の首を掴んでやっつけている。横では、さくらがハラハラしている。「お兄ちゃん、よしなさい」って。

寅さんとさくら。
愚兄賢妹ってことになるのかな。たまには、上も下もできがいい、なんてこともあるが、どちらかが愚である方が面白い。

寅さん記念館、ひと通りのお勉強も教えてくれる。幾つものパノラマがある。
昭和20年3月10日の東京大空襲。この日夜半、米軍のB29の編隊は、東京の下町へ焼夷弾によるカーペット・バンビング(じゅうたん爆撃)を加えた。この爆撃による一般市民の死者は、10万人以上と言われる。
この時、寅は11歳、さくらは5歳。
なお、この時、監督の山田洋次は13歳、寅の渥美清は16歳、さくらの倍賞千恵子は3歳である。

館内には、あちこちに大小さまざまなモニターがある。「男はつらいよ」のさまざまな場面を映し出している。
寅と旅回りの歌手・リリー。渥美清と浅丘ルリ子だ。この二人の関係、とてもいい。山田洋次の感覚も、そのようだ。

こちらは、渥美清と吉永小百合。
吉永小百合も、山田洋次の心の中では、重い比重を持つ女優であるが、このシーンが表しているように、寅次郎もどこか硬い。役回りも、OLだとか図書館勤務。寅にとっては固い女性である。浅丘ルリ子が扮する旅回りの歌い手であるリリーというワケにはいかない。どこかぎこちない。

こういうコーナーがある。
”その昔、葛飾柴又に「とら}という男がいた”とか、”葛飾”の地名は、1800年前から、万葉集にも、といったことごとが記されている。

寅さん、そうだよ、夏でも冬でも。テキヤの制服だ。

”寅の全財産”という展示もある。
キンチョウ蚊取線香、龍角散、他の富山の薬、高島易断の暦、目覚まし時計、トイレットペーパー、洗面具入れ、下の方には、腕時計や指輪などと共に、サイコロと花札も。
流れ流れの浮草稼業、サイコロと花札は必需品に違いない。

寅さんの名台詞が幾つも。
「結構毛だらけ、猫灰だらけ、お尻のまわりは糞だらけ」、「大したもンだよカエルのションベン、見上げたモンだよ屋根屋のふんどし」、「兄さん寄ってらっしゃいは吉原のカブ」、「日光・ケッコウ東照宮」、「三で死んだか三島のお千、お千ばかりが女子じゃない」、その他幾つもの。

山田洋次、1969年から1995年にかけての27年の間、48本の「男はつらいよ」を撮った。
その間、寅さんの相手を張るマドンナ役にさまざまな女優を起用した。老若と言ってもおかしくない。その時々の日本を代表する女優たちだ。
中で、最も多く起用されたのは、吉永小百合と浅丘ルリ子である。


秋吉久美子や松坂慶子も悪くはないが、やはり浅丘ルリ子だ。
寅さんには、浅丘ルリ子が扮する旅回りの歌い手・リリーがピタリ。
僅かな根拠しかない話である。でも、そうであろう話でもある。渥美清の、リリーへの思いを語った語りを聞いた浅丘ルリ子、滂沱の涙を流した、という。
寅とリリー、結ばれてほしかった。

寅さん記念館を出た所にある”柴又下町屋”。


その近辺の壁面。
「男はつらいよ」、全48作が記されている。
その後、帝釈天参道の「とらや」で飲んだ。第4作までは、ここで撮影されていたそうだ。この日、私を案内してくれた男と。
この男、若い頃、写真の専門教育を受けている。とてもいい写真を撮る。今、江戸川区50景を写している。その内に、成るだろう。毎日歩いているようなので。
飲んでいると、5時前、「そろそろ看板です」、と言われた。5時で店は閉めるらしい。

帝釈天参道の商店街、午後5時には店を閉める。
葛飾柴又、そういう町だ。