安ホテルのベン・シャーン。

あと1週間で、大震災から1年となる。大震災に関する報道も多くなっている。昨年末から日本を巡回しているベン・シャーン展についてのことごとも、目につく。
ベン・シャーン展、昨年末の神奈川県立近代美術館から始まり、現在は名古屋市美術館で開かれている。その後、岡山県立美術館へ行き、6月から7月にかけて福島県立美術館へ巡回する予定である。しかし、異変が起きた。一昨日の「天声人語」にこうある。
<水爆実験で死の灰を浴びた漁船「第五福竜丸」の連作もある画家は、あの世で泣いているだろう。米国の複数の美術館が、福島県立美術館への貸し出しを取りやめたそうだ>、と。その理由は、<「スタッフと作品の安全のため」だという>、と続く。
「天声人語」には、”米国の複数の美術館”となっているが、現実には、7館の美術館から福島での展示取りやめの連絡があったようだ。福島県立美術館は、アメリカからの作品が展示できなくても、国内にある作品だけでベン・シャーン展を行なう、と言っている。
元々アメリカは、大震災時の福島第一原発の事故のすぐ後、福島第一原発から80キロ圏内の自国民に対し、避難指示を出していた。日本政府が、20キロ圏内の国民に対し避難指示を出したかどうか、という時期に。アメリカという国、原子力、放射能に対しては、とてもナーバスである。それにしても、だ。福島県立美術館での展示拒否は。
福島県立美術館は、健気である。日本国内にある作品だけでもベン・シャーン展をやる、と決めている。私も、岩手県ばかりじゃなく、福島県へも肩入れしたくなってくる。
そうは言ってもベン・シャーン、私の中ではさほどの絵描きではない。アメリカの絵描き、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコは、ワー、スゲーヤツとなる。少し後のジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジム・ダイン、アンディー・ウォーホル、クレイス・オルデンバーグ、その他数限りないポップアートの連中もそう。でも、ベン・シャーンはな、という感じであった。
1月下旬、三陸を訪ねた。電車とバスとタクシーで廻ったにすぎないが。
気仙沼で、復興屋台村・気仙沼横丁へ飲みに行った。屋台村への往き帰り、タクシーの運転手に大津波の被害を受けた跡を、あちこち案内してもらった。暫らく前、「岩手あちこち」に書いた。
ぼろっちいホテルへ戻りテレビをつけた。新日曜美術館が出てきた。ベン・シャーン展についての番組であった。半分ぐらいは過ぎていたが、残り半分ぐらいを観た。
ベン・シャーン、画家であり、カメラマンであり、イラストレーターであり、グラフィック・デザイナーでもある。クロスメディア・アーティストである。
気仙沼の安ホテルで観たベン・シャーン、こういうものであった。

ベン・シャーン、1898年に生まれた。ロシア生まれのユダヤ人である。
どこの地でもそう、ロシアでもユダヤ人に対する迫害は酷かった、という。で、8歳の時、アメリカへ渡る。
ロシアに限らず、ヨーロッパのあちこちで生まれたユダヤ人、迫害に耐えかね生国を捨てる。アメリカへ渡った者が多い。ディアスポラだ。デラシネ・根なし草とは異なる。その土地で根づく。
ベン・シャーンもニューヨークへ。ブルックリンで根づく。ユダヤ人も多い。でも、頑張らなくっちゃ、という土地だ、ブルックリンは。可能性の国なんだから、アメリカは。

ベン・シャーン、カメラマンでもある。前記した如く。
1935年、ベン・シャーン、アメリカ中西部、南部に行く。多くの写真を撮る。
上の写真は、テネシー州ハンティントンの黒人の写真だが、その上の写真のようなプア・ホワイトの写真も多く撮る。
安ホテルのテレビと座っている椅子、正対していない。ゆがんでいる。”おーいお茶”や純米酒のカップがテレビの前に置いたままになっている。

オハイオ州ザーグルヴィルで撮られた子供の写真。彼は、白人だ。

しかし、プア・ホワイト。
この眼を見れば解かる。


紙にグワッシュで描かれた作品。タイトルは、≪W.P.A.サンデー≫。1939年の作。

実は、1935年、ウェストヴァージニア州スコッツ・ラン、オウマで撮影撮影された右の写真を、4年後に描いたものだ。

右は、オハイオ州コロンバスで、1938年に撮影された写真を売る黒人の写真。
左は、その写真を元に描かれたテンペラ画。タイトルは、≪友達の写真屋≫。1945年の作である。

1968年、ベン・シャーンは版画集を作る。
『一行の詩のためには・・・:リルケ「マルテの手記」より』、というもの。
手が写っている。

拡大すれば、このよう。

より近づけば、このようになる。
震えるような線、ベン・シャーン、このような線を極めていった。

その扉。やはり、ベン・シャーンの線。

版画集≪一行の詩のtくぁめには・・・:リルケ「マルテの手記」より≫の一葉。
≪小さな草花のたたずまい≫。

これは、≪死者の傍で≫。

番組の前半は観ておらず、後半のみなので、2〜30分も観ていたろうか。この場面で番組は終わった。今後の巡回展の案内で、というところまで。
しかし、その後、福島では異変が起きた。アメリカからの作品は、展示拒否、という。
はからずも、この後ろに映っている作品、≪ラッキードラゴン≫だ。
手に何か紙のようなものを持っている。「私は、久保山愛吉という漁師です」、と始まる文字が書かれている。
久保山愛吉、第五福竜丸の漁労長であった。死の灰を浴び、亡くなった。
”第五福竜丸”、その”福竜”が、”ラッキードラゴン”なんだ。そのどこがラッキーなんだ、という課題は、常に問い続けるべき課題。
それにしても、福島県立美術館でのベン・シャーンの展示、全米7館の美術館が引いてしまった。アメリカをどうこう言うことはできない。引いた人もいる。だが、その中に身をさらすアメリカ人もいる。
日本人になりたい、と言って日本に来たドナルド・キーンは別格としても、山形弁のダニエル・カールやアーサー・ビナードもいる。
アーサー・ビナードは、ベン・シャーンの絵に詩をつけている。『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』、を書いている。アメリカ人もさまざまだ。
日本人もさまざまだが、腹の立つヤツが多い。東北のガレキ、その処理一向に進まない。受け入れる自治体がない。何故だ。何故に拒否する。
日本人、おしなべて等しく受け入れればいい。放射能も。日本の問題だ。ガレキさえイヤだ、というヤツに言いたい。お前ら、”絆”という言葉、今後一切使ってほしくない、と。
気仙沼の安ホテルでのベン・シャーン、いささか横道に逸れたかもしれないが。