不可思議色。

マーク・ロスコを追う人・光田節子を紹介してから1年になる。光田が出品する新槐樹社展、つい先日開かれた。
見た途端、ウッ、何て言えばいいんだ、と思った。ンッ、どういうことだ、とも思った。去年の作品を観ているだけに、余計にそう思う。ほとんど同じように見えた。同じではない、しかし、一見そう感じる。しかし、よく見ると、ずいぶん違う。どういうことか。
光田節子の作品、2点展示されていた。いずれも、80号か。

タイトルは、「私の山ー瞬刻・朝ー」。
茶色いような黄色いような色が混ざりあっている。不思議な色。
チケットが同封されていた書状に、こう書いてある。<1年間で4点描いて出しました。求めている色に届かず、自分の力量不足を感じています>、と。
求めていた色、一体どのような色なのか。ひょっとしたら、永遠に求め続けていくのではないか、とも思った。求めもの、追えば追うほど先へ行く、というのが物事の常道でもあるし。

「私の山ー一瞬の出会・Ⅱ−」。
4点描いたとのことだから、「ー一瞬の出会・Ⅰー」はあったろう。あと1点は、「ー一瞬の出会・Ⅲー」か「ー瞬刻・夕ー」か。どのような色を追求していった作品かは解からないが。不思議な色であるだろう。
昨年、やはり光田のことを知る従妹のJは、ブログを見てこう言ってきた。「抽象画のことはよく知らないが、画面で見ると染料で染められた和紙のように見える」、と。正直な感想だ。作者の光田自身の去年のメールにも、「広い会場の中で離れて見ると、色紙のようで・・・・・」、ということが記されていた。
たしかに、そうも見える、私にも。しかし、よく見ると、そうではない。よくは解からないが、何かありそうなんだ、深いものが。
「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」、という言葉を思い出す。元々はカール・ユングの言葉だそうだが、ここ2〜3年の間に、数百万の人に読まれた小説に出てくる言葉だ。そう言えば、と思われる方もおられよう。
この小説の中でも、”なんだかよくは解からないが、何か深いものがありそうだ”、という比喩に使われている。
光田節子の色、それに近い。よくは解からないけど、何かありそう、という感じ。
不思議な色だ、と前記したが、改める。
”不思議な色”ではなく、”不可思議色”、と。
よくはワカンナイが。

よくはワカンナイが、少し頭を冷やすため、休憩室へ行く。忘れていたが、この展覧会、今月中旬、国立新美術館で行なわれていたもの。
国立新美術館の休憩室の窓から見える外の光景、ごく普通のものである。六本木、乃木坂の日常の光景。ごく普通のビルがいくつか。
少し経ち、光田節子の絵の前に戻る。

「ー瞬刻・朝ー」の方を、一部拡大した。
光田からの手紙には、こういうことも書かれていた。
<昨夜は、丸善でみつけたロスコの画集を久し振りに開きました。色の組合せで語っているロスコの世界に、改めて心を動かされました>、ということも。
私もこの1〜2か月、マーク・ロスコの絵は、何度か観た。
昨年末、「モダン・アート、アメリカン」では、水彩かと思える小さいが小粋なロスコの作品を見た。今年初めには、東京都現美術館の常設展にロスコの作品が展示されていた。カンヴァスに油彩の「赤の中の黒」。1月末には、久しぶりに佐倉の川村記念美術館へ行った。ロスコルームで、久しぶりの”シーグラム壁画”と対面した。
私も、ロスコづいてはいる。実作者である光田節子とは別次元であろうが。


「ー一瞬の出会・Ⅱ−」の一部を拡大した。
ロスコを追う光田節子の世界、マーク・ロスコとは異なる。
ロスコの色は、面であり層である。光田の色は、何だろう。光田の色だ。面でもなければ、層でもない。どこがどう、と言うことでもない。凄いじゃないか、自身の色を持つなんて。
そして、フト気づく。
色の世界にフォルムが表われている。光田が意図したものではないもの、であるかもしれないが。
不可思議色による不可思議なフォルム、とても美しい。