専修念仏。

東博での「北京故宮博物院200選」の前の特別展は、「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展であった。去年秋、12月初めまで。観には行ったが、禁煙薬の副作用がひどい時期、ブログも休んでいた。東博ついでで、遅まきながら。
去年は、法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌の年だった。東博、”鎌倉の巨星ふたつ。800年ぶりの再会。”、と謳っていた。

平安時代末期から鎌倉時代にかけては混迷の時代。大地震や飢饉などの天変地異、また、戦乱が相次いだ。死が身近な時代である。
貴族や上流階級の連中は、仏像を造ったり、寄進をしたり、死んだ後、極楽へ行くためにさまざまな行ないをしていた。
しかし、一般庶民はどうすればいい。金もなければ、こ難しいことも解からないその他大勢の連中は。死んだ後、極楽へ行くことなど遠い夢。地獄へ行くより仕方がないのか。

そのような時、「そんなことはない。仏さまは、生きとし生けるものすべてを救うのだから、金持ちや上流階級の連中だけが救われるなんてバカなことはない」、と言って登場したのが法然だ。
で、どうすりゃいい。
「ただ、阿弥陀仏の名前を唱えるだけでいい。南無阿弥陀仏」、と法然は説く。「ただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と唱えていれば、だれでも極楽浄土へ行けますよ」、と。
こりゃ楽だ。金もいらない。こ難しいことも必要ない。”南無阿弥陀仏”、と唱えていればいいのだから。
専修念仏の始まりだ。
一般庶民は救われた。それにしても、法然、偉い人だ。
専修念仏で一般庶民に救いをもたらした法然は、偉い。しかし、実は、これには先達がいる。また、中国だ。唐の時代の善導というお坊さんが教えていたことだ。法然は、その善導の教えを日本に持ちこんだ。凄いよ。
40年後に誕生した親鸞も、法然の専修念仏を受け継ぎ、さらに極めていく。その行きついた先が、悪人正機。

法然上人像(隆信御影)。南北朝時代・14世紀。京都・知恩院蔵。
法然、1133年に生まれ、1212年に死んだ。長生きだ。

親鸞聖人影像(熊皮御影)。室町時代・15世紀。奈良国立博物館蔵。
親鸞、法然より40年後の1173年に生まれ、1262年に死ぬ。法然よりさらに長生き、90まで生きた。
親鸞が法然に弟子入りするのは、29歳の時。40歳年上の法然は、69歳になっていた。が、法然、たちまちの内に親鸞の才能を見抜く。
しかし、当時の仏教界のエスタブリッシュメントは、法然たちのことを潰しにかかる。ただ、南無阿弥陀仏と唱えればいい、なんてことを言われては困るんだ、既存勢力は。
このこと、いつの時代でも同じ。新しい動きが出てくると、既存勢力は押さえにかかる、潰しにかかる。その典型が、国家の政体を覆す革命だ。命を賭けて、潰しに来る既存のエスタブリッシュメントと戦う。ロシア革命のレーニン、トルコのケマル・パシャ、エジプトのナセル、キューバ革命でのゲバラ、その他諸々、革命家は皆カッコいい。
宗教家も同じだ。法然もカッコいい。親鸞も。しかし、法然と親鸞は、6年の間しか一緒にはいなかった。既存のエスタブリッシュメントに刺された。弾圧された。法然と親鸞は、離れ離れになってしまった。法然は、讃岐へ、親鸞は、越後へ流された。長生きをしたふたりであるが、その後再び、会うことはなかった。


法然と親鸞にまつわるものも多く展示されていた。そのひとつがこれ。
阿弥陀如来座像。1299年の作。神奈川・浄光明寺蔵。
大きい。これは部分だが、全体は、4メートル近い。

私にとっては、これが観られたことは、望外の幸せであった。「早来迎」である。
正式な名は、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」。鎌倉時代、京都・知恩院蔵。
急な山の斜面にそって来迎する阿弥陀仏と諸菩薩を描いたもの。動きがある。スピード感がある。

でも、これは外せない。歎異抄だ。
歎異抄は、親鸞の死後、さまざま異なる教義を説く者が多く出たのを嘆き、親鸞の弟子・唯円がまとめた書。
写真のこれは、蓮如による現存最古の写本である。
歎異抄の第三条。
<善人なをもて往生をとぐ いはんや悪人をや しかるを 世のひとつねにいはく 悪人なを往生す いかにいはんや善人をや ・・・・・>、というよく知られた一条。悪人正機、と言われるが、基本的には、他力本願の専修念仏。
梅原猛、五木寛之、真継伸彦、その他多くの人が現代語訳をしている。皆さん、間違えちゃいけないぞ、とおっかなびっくりしながら現代語にしているのが可笑しい。
唐の善導が説き、法然が広め、親鸞が深化させた”仏さまは、すべての人を極楽へ導いてくれるのだよ”、ということさえ解かっていれば簡単なのに。