積み残し(続きの続き)。

積み残しの紅葉、続きの続き。
2週間前、孫娘の初宮詣について記した。その神社に設えられていた茅の輪の側に、小林一茶の茅の輪の句が書かれていた、と。一茶は、下総の地とは縁が深く、第二の故郷としていた、とも。
信州信濃柏原で生まれた小林一茶、14歳の時に江戸に出る。恐らくその何年か後、千葉の馬橋(東京近辺以外の方にはお解かりにならないであろうが、現在の松戸と新松戸の間あたり)の油商、大川平右衛門のところへ奉公している。大川平右衛門(俳号、立砂)は、葛飾派の俳人。大川立砂、若い一茶を可愛がり、俳諧の道を指導する。
立砂の指導よろしく、一茶の才能も当然あり、その内に、小林一茶、下総のみならず房総一帯に多くの弟子を持つ俳諧師となる。何とか食っていける程度の模様であるが。
流山(当時の流山、江戸川河畔の交易地)に、秋元三左衛門という醸造家がいた。秋元三左衛門、味醂の開発者のひとりである資産家であり、双樹なる俳号を持つ俳人だ。小林一茶、流山の秋元三左衛門・双樹を50回以上訪ねている。
馬橋から流山までの直線距離は5〜6キロ。今、日本で3番目に短い路線であるらしい流山電鉄が走る。しかし、当時は、水戸街道から小金道と、馬橋から流山までは10数キロの道のりであったようだ。小林一茶、その道を歩き、秋元双樹を50回以上も訪ねている。秋元双樹、一茶のパトロンであった。
芭蕉にして然り、江戸期の俳人、パトロンにより生計を維持していることが多い。一茶も同じである。ただ、一茶と双樹の間には、それ以上の強い結びつきがあったようだ。双樹は一茶を家族同様に扱い、離れ座敷を与えていた、という。
今、流山に「一茶双樹記念館」がある。江戸期の秋元本家の建物、安政年間の建物を修復した双樹亭、茶会や句会が催される一茶庵、3つの建物と庭で構成されている。秋元本家の建物は、一茶と双樹の小ぶりな資料館となっている。
何だか前振りが長くなった。今日は、紅葉のことを書くのだったな。その庭の紅葉のことを。
今月初め、その紅葉を見に行った。

鄙びた数奇屋門をくぐって庭内へ。

紅葉した枝の下には、句碑がある。

文化元年(1804年)、旧暦9月2日、一茶が流山で詠んだ句。
     夕月や流れ残りのきりぎりす     一茶
この頃、雨が多く流山も洪水に見舞われた。その夕刻、空には淡い夕月がかかっている。どこかの物陰で、生き残りのきりぎりすが鳴いている。そういう句。何とも、いや、何とも言えない句じゃなかろうか。
なお、この石材は、一茶が生まれ育った信濃柏原の黒姫山のものを用い、柏原の方を見守るように建てられている。

双樹亭の方へ。
あちこち紅葉が。

江戸期の建物を解体、移築した双樹亭(右)の庭。木々、紅に染まっている。

趣きのある紅葉。
係の人に訊ねたら、”縮みもみじ”という答え。確かにそう。正式な名称はあるにせよ、そうであるに違いない。縮んでいるもの。いずれにせよ、趣きありの紅葉だ。

秋元本家の建物は、小ぶりな展示室となっている。
一茶や双樹に関する資料が展示されている。

鴨居の上に、この句があった。
     掌に酒飯けぶる寒哉     一茶
骨太の文字、金子兜太の筆になる。
季節は、寒い今の時季。それにしても、どういうことか。解かるようで解からない。それでいて、解かるような気もする。不思議な句である。この句のため、私は先ほどから、酒を次々と飲んでいる。どういうことか、と。
大晦、これで今年も終わり。いろいろあったが、速かった。