ヨコハマトリエンナーレ2011(8)。

現代美術、インスタレーションが多い。今回のヨコトリでも、その半分ほどはインスタレーション、と言っていいかもしれない。
一昨日のオノ・ヨーコの『迷路の中の電話』も、昨日のヘンリック・ホーカンソンの『倒れた森』も、山下麻衣+小林直人の『土から作るスプーン』も、みなインスタレーションだ。その表現の素材は何であろうと、表現手段はどのようなものであろうと、みな、そう、インスタレーション。
ロジェ・カイヨワという人は、いろんなことを考えることが好きだったようだ。鉱物学、動物学、民俗学、神学、・・・・・、もちろん、美学も。こういう人が書くものは、読みにくいし、解りづらい。しかし、時には、私でも解ることも書いている。
半世紀前、ロジェ・カイヨワ、その著『自然と美学 形体・美・芸術』(山口三夫訳、法政大学出版局、1972年刊)の中で、こう言っている。
<芸術とは、ことさらに作り出される美、人間が意図的に創造し、世界に付け加える美、人間がわざわざ自分自身の手段によって制作する外的作品である>、と。
ガリマールからこの原書が出たのは1962年。カイヨワが原稿を書いたのは、おそらく、50年前であろう。ここでカイヨワが言う”人間”は、何を指しているのか。おそらく、作品の創造者、作家のことであろう、と思われる。
しかし、その後の芸術、大きく変容した。カイヨワの言う”人間”の定義も変わった。作品の創造者に鑑賞者も加わった。両者が相まって作品が完成する、とも言える。”空間”、という要素も重きを占めてきた。
ロジェ・カイヨワの定義に、”参加”と”空間”、という要素を加えたものが、現代芸術、コンテンポラリーアートの中で大きな分野を占めるインスタレーションである、と言ったらどうだろう。美学の専門家たちからは、反撃を食うだろうが。バカなことを言うな、と言って。かまやしないが。私は、そう思う。
そのインスタレーションの典型が、これである。

イェッペ・ハイン作『Smoking Bench(煙のベンチ)』。
ステンレスかアルミかは知らないが、背もたれのないベンチが置いてある。奥の壁には、大きな鏡がある。少し煙のようなものも映っている。

このベンチに人が座ると、ベンチに開けられた小さな穴から煙が立つ。ブワッー、と。面白いな。

煙は、徐々に消えていく。

だんだんと。
誰かがベンチに座るのも、煙が立ち上り消えていくのも、作品である。そうであるからこそ、この作品は完結する。面白い、私もやりたい。で、ベンチに座ろうとしたら、係りの人に止められた。順番だと言う。予約制だと言う。
じゃあ、予約する、と言ったら、待ち時間、なんと1時間以上先だ、と言われた。ベンチに座るだけでも、と言ったら、それもダメだ、と言う。煙が出ちゃうらしい。人気があるんだ、このスモーキング・ベンチ。たしかに、面白い。

仕方がないので、ベンチの前にしゃがみこんで1枚撮ってもらった。煙は出ていないが、これもイェッペ・ハインのインスタレーションへの参加。
先ほど、ふと思った。
私は、鏡を見ている。鏡には、何人もの人が映っている。皆さん、こちらの方を見ている。この構図、プラドの『ラス・メニーナス』じゃないか、と。
皇女・マルガリータの姿はない。鏡に映る国王夫妻の姿もない。ベラスケスの姿も。映っているのは、日本のごく普通の人たちばかり。でも、やはり、ラス・メニーナス。
21世紀のインスタレーションが、ラス・メニーナスにつながるのも、面白い。