力作瞥見(5)。

グループ展、今日、最終日。
後片づけをし、それぞれの作品を宅配便で送り返した後、打ちあげの飲み会。
短い会期、アッという間に過ぎた。しかし、ジジババのグループにとっては、少し大袈裟に言えば、搬入日を入れ、狂乱の一週間。毎日、何らかの飲み会をやっていた。時には、昼間から。
私も、一日を除き、会場へ行った。「いや、疲れたな」、と言うヤツが何人もいる。私も、いささか疲れた。楽しかったが。
会期は終わったが、まだ紹介していない力作が残っている。それを成し遂げるまでは、私の会期は終わらない。
で、今日は、最新のテクノロジーを駆使した力作と、万古不変の生成物を素材とした力作を。

Y.I.の作品。5点すべてデジタルアート。サイズは、すべて40cm×34cm。
タイトルは、一番右が、「生まれ変わって」、その左は、「水ぬるむ」。Y.I.のデジタルアート、「コーレル・ペインター」という無料のパソコンソフトを使って描いている、という。
Y.I.の作品、毎回、幻想的。美しい。今回も。パソコンソフトを使うと、誰でもがこのような作品を描けるものではない。当然だ。
パレットで色を調合、ブラッシュで描くそうだ。その点、カンバスに絵具で描くのと同じこと。作品の力作度、要は、作者の感性と資質による。だから、これは力作。

左は、「しめやかな月」。右は、「忍び寄る」。
絵の色調といい、タイトルといい、作品そのものが醸し出す雰囲気といい、一見、嫋な印象を与える。今日、口の悪いR.H.が、「ファッション雑誌か何かにありそうだな」、だったか、いずれにしろ、それに類する言葉を口にした。一瞬、Y.I.の顔面、ピピッと引きつった。
実は、Y.I.、軟弱とは真逆の硬派の男なんだ。Y.I.、私の3〜4年後輩。その頃には、ほとんど学校へは行っていない私、どういうわけか、彼の学生時代を知っている。
学生服を着た腕っぷしの強い男だった。その頃でも、学生服を着ているヤツなど珍しい。拓大や国士舘の連中とでも、タイマンを張れるような腕っぷし。ただ、Y.I.、英語が滅法できる男でもあった。
で、学校を出た後は、外資系の出版社へ入った。硬い本を担当していたようだった。総合誌『アステイオン』の編集長をしていたこともある。その頃、何冊か貰ったことがある。
総合誌といっても、『文藝春秋』のような、幅広い対象を相手としているものではない。論壇誌なんだ。執筆者の多くは、学者連中。時の政権党に近いポジショニングの学者が、多かったような印象がある。
面白いことは面白いが、論壇誌など、さほど売れるものではない。Y.I.は、リキを入れていたが。会期中、その当時のY.I.の仲間が来ていた。私は、『アステイオン』、その後どうなっているか、聞いてみた。今でも、出ているそうだ。年に2回。
出版業界自体、大変だ。出版物自体が売れない。『アステイオン』も、TBSブリタニカからサントリーへ、さらに、阪急コミュニケーションズへ、と資本の主体が移っている。だから、Y.I.も、リタイア後は、デジタルアートに専念だ。幾らかの翻訳作業はしているようだが。
で、憂いに沈む女性の姿を、描き続けている。

この作品、タイトルは、「そらを舞う」。
Y.I.に聞いたことはない。彼とは、よく飲み会をやっているのだが。だが、今、フト思った。ひょっとしてY.I.、現代の竹久夢二が頭にあるのかな、と。デジタルアートの竹久夢二を描こうとしているのかな、と。
身に纏っているものは違え、憂い顔の美女ばかり。夢二の世界と通底する。
それとも、ただ単に、Y.I.の、理想の女性を追いかけているに過ぎないのかもしれないが。

ガラッと変わり、R.H.の作品。タイトルは、「鹿」。7〜80cm×120〜130cm。作品総覧には、床に置くディスプレー、となっている。
枯れ葉を敷きつめたところに鹿の角が乗っている。角には、白い頭骨が付いている。それが、床に置いてある。
絵画の潮流に、自然主義と呼ばれるものがある。ミレーやコロー、また、印象派やロマン主義の絵描きたち。自然の美しさを描いた。また、コンテンポラリー・アートには、動物そのものを使った作品もある。しかし、R.H.のこのような作品、何と呼ぶのだろう。枯れ葉に頭骨の付いた角、といった作品。
私は、「自然派」と名づける。「素朴派」では、少し気の毒なので。私の知る「自然派」のアーティスト、今のところ、R.H.ただひとり。まず、それが、凄い。

鹿の頭に近づこう。
R.H.、こう言っていた。鹿の角だけなら、1万7〜8千円で売っているそうだ。しかし、頭の骨が付いたものは、5〜6万する、と。「じゃあ、素材代に大分かかったんだな」、と言うと、「実は、これは貰ったものなんだ」と言う。
そうか、なら、合点がいく。
実は、R.H.、「どうぶつ社」という出版社をやっている。動物ばかりじゃなく、植物や昆虫など、生物に特化した出版社。もう40年ばかり。去年だったか、もう企画ものはやらない、閉めるんだ、と言いながら、まだ続けている。
だが、個人出版社を40年も続けてきたなんて、大したものだ。志の出版社であったからこそ、続けられた、と私は思う。さらに、下支えをしてきたカミさんがエライ。付き合い、半世紀にもなると、そのことよく解かる。
何書いてんだ、私。打ちあげの後帰ってきて、また、飲みながら、これを書いているにしても。作品のことを書かなきゃいけない。力作だ、ということを。
R.H.の今回の作品、力作なんだ。確かに。前回の出品作からは、格段に進歩した。
前回展の時のR.H.の出品作、枯れ葉とドングリだけだった。ドングリは、いっぱいあったが。話好きのゴッドマザー・Y.K.など、毎日、自宅周辺からドングリを拾ってきては、R.H.の作品に補充していた。
それがどうだ。今回は、ドングリではなく、頭骨付きの鹿の角に発展している。これを、進歩と言わずして、何と言う。力作だ。

私が、R.H.の今回の出品作を力作だ、という理由、単に、眼に見える、床に置かれた造形物ばかりではない。プラスアルファがある故だ。
R.H.、この作品に興味を寄せる人に、説明をしている。講釈をしている。特に、女性に。さらに絞れば、若い女性に。いいことだ。
時折り、私も横で聞いていた。R.H.、こういうことを話している。
「中央の目のように見えるのは、目ではない。目は、横の大きな穴なんだ。横にあるトチの実のように大きな穴が目なんだ。これが、眼窩」、と。さらに、「中央の目のように見える穴は、眼窩上孔、神経や血管が通っている穴なんだ。眼窩下孔もある」、と。
「角は、毎年生えかわる。角にも血管が通っている」。「そうだな、これは、12〜3歳の鹿らしい」、とも。その他にも、いろんなことを話していた。
これは凄い。芸術作品に勉強がつく。誰しもが、力作だ、と思うだろう。それとも、そんなこと思うの、私だけかな。