空海(続きの続きの続きの続きの続き)。

4年前になる。私も、曼荼羅を描いた。これである。

なんじゃこれっ、て言っていただいてもかまわないが、私のなかでは、一応曼荼羅。両界曼荼羅のつもりである。
両界曼荼羅にしては、中心佛が大日如来じゃないではないか、と言われるかもしれない。ご尤もである。空海が唐より請来した曼荼羅の如く、密教流布のためのものではない。単に、絵柄として興味深いので。
それでも、私の思いとしては、こうなる。右は、胎蔵界曼荼羅。左は、金剛界曼荼羅。紙にアクリル絵の具で描いた。
モデルとなっていただいた佛たちの名は、ほとんど解からない。アジアのあちこちから、私の陋屋へお出でになった。我国はもちろん、中国、韓国、台湾、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、インド、ネパール、チベット、といった国々から。概ね小さな佛さまであるが、なんらかの縁あって。

胎蔵界のみを取り出すと、こう。
大きくするとアラが出るので、あまり取り出さない方がいいのだが。

こちらは、金剛界。アラは、どうでもいい。
森敦著『マンダラ紀行』(ちくま文庫、1989年刊)には、<・・・・・とまれこうして慈悲の胎蔵界マンダラから生まれ出た金剛界マンダラが、理智を現すものとされるのもまた当然であろう>、という一節がある。
胎蔵界と金剛界、”慈悲”と”理智”か。私の両界、いずれとも無縁。
また、胎蔵界マンダラは、昼の光景、金剛界マンダラは、夜の光景、ということも言っている。私の両界マンダラ、昼夜とも無縁だ。

アラが出ることなどにも無縁で、より大きく取り出すと、蓮華も描いた。

飛天も、飛ばした。
実は、この両界曼荼羅、4年前、古い仲間内の展覧会で発表すると、ごく一部の人から好評を得た。面白い、と。深遠なる宇宙観にも、また、慈悲にも、理智にも無縁の作品であるが。
”ごく一部の人”と打ったが、好評を得たのは、実は、2人。面白い、と言ってくれた人は、何人かはいたが。
2人の中のひとりは、50年来の友人であるH。彼には進呈した。胎蔵界の方がいい、と言うので、そちらを。Hのことを今ごろは、慈悲の心で見守っているに違いない。
あと1人は、譲ってほしい、という人。これこれぐらいなら求めたい、と言う。驚くほどの額ではないが、無職の身には、そこそこの額。しかし、譲らなかった。絵描きのSが、マンダラ、1点は手許に置いておく方がいい、と言った言葉を思い出した故。
私の曼荼羅、なんじゃこりゃ、の曼荼羅ではあるが、求めたい、という人までいたこと、つい(でもないか)、書いた。
お大師様・空海には申しわけないが、ものには、”ついで”ってこともある。曼荼羅ついでに、なんじゃこりゃの曼荼羅も載せちゃった。
それはともかく、森敦の『マンダラ紀行』は、面白い。『月山』での芥川賞最高齢受賞記録・62歳は、未だ破られていないが、だいたい森敦自体が、面白い。
若いころには、東大寺の塔頭に寄寓している。39歳の時には、1年の間、鶴岡の注蓮寺に身を置いている。老年になるまで、日本中あちらこちらに住まいしている。まさに、漂っている。
『マンダラ紀行』、70を過ぎてからのもの。NHKに頼まれた番組を書にまとめたもの。神護寺、東寺、東大寺、高野山、そして、四国のお遍路の道。その間、密教の、マンダラの如何なるものか、を考える。それもそうだが、さすが森敦、名文である。特に、ごく何気ない文章がいい。例えば、こういう・・・・・
<車椅子のわたしの前には、植木が通りの壁に寄せて目も遥かに並んでいる。石油鑵を持ちだして薪を燃しながら、手をあぶっている者がいる。降ってはいないが晴れるに至らず、客待ちの露天商にはまだ寒いのである>。
東寺の”弘法さん”を訪ねた時の一節である。
”客待ちの露天商にはまだ寒いのである”、なんて何でもない言いまわし、いいねー。