空海。

東博での「空海と密教美術展」、スゴイ人気である。数日前には、入場者50万人を突破した。
一昨日の台風が過ぎた後急に涼しくなったが、その前、まだ暑いころ観に行った。

東博正面入口の看板の前、いつもながらバイクとチャリンコが並んでいる。こういう場所、どういう人が停めているのか、いつも気にかかる。
”密教美術1200年の原点、その最高峰が大集結”、”99点の展示作品のうち98点が、国宝か重要文化財という夢の展覧会”、つまり、”国宝、重文比率98.9%”、なんて惹句も踊っている。東博も、商売気が出てきたようだ。

帝釈天騎象像。
もちろん、国宝。京都、東寺から持ってきた。東寺講堂の立体曼陀羅の一尊だ。
”この夏、マンダラのパワーを浴びる”、なんてコピーも添えている。

梵天坐像。
東寺講堂の立体曼陀羅の一尊。これも、国宝。
平日の昼間。しかし、照りつける太陽の下、平成館の前には多くの人が並んでいる。
だが、今の東博、商売気もあるが、サービスにも努めている。あちこちに日傘を置いてあるし、冷たい水も配っている。この日の待ち時間は、20分。”東博”と染め抜いた日傘、年寄りには助かる。

弘法大師・空海、日本に初めて真言密教を伝えた。密教というもの、経典をどうこうというよりも、造形表現を重視する。だから、平面や立体の曼陀羅が、請来され、残された。
立体の典型が、京都、東寺講堂の立体曼陀羅(羯磨曼陀羅)。
大日如来を中心にした五如来、五菩薩、五大明王、四天王、それに、梵天と帝釈天、合計21尊で、東寺講堂の立体曼荼羅は構成されている。

今回の東博には、そのうちの8尊がお出ましになった。この写真の8尊。この夏、東寺に行った人は、少しガッカリしたことであろう。21尊中8尊が、東京へ出開帳に行っているのだから。
それはともかく、今回の展示、4章に分かれている。「空海 日本密教の祖」、「入唐求法 密教受法と唐文化の吸収」、「密教胎動 神護寺・高野山・東寺」、「法灯 受け継がれる空海の息吹」、の4章と、「仏像曼陀羅(立体曼陀羅)」。
空海、延暦23年(804年)、唐へ渡ったことは、よく知られている。
しかし、空海という人、凄い人である。
革新的な宗教者であり、能筆家であり、社会事業家でもある。しかし、私は、その人間像が面白い、と考えている。
遣唐使の一行に入り、留学生(るがくしょう)として唐に渡った。しかし、2年余で日本に戻ってきた。唐の高僧・恵果から、これ以上教えることはない、と言われたから、となっている。しかし、果たしてそれだけか。
留学生、20年間学ぶ学僧である。それを2年余で打ち切っている。「もう解かった。早く日本に帰り、これを天皇にも伝え、国中にも広めよう」、と考えたのではなかろうか、と思うのだ。功名心に駆られたのじゃないか、と考えるんだ。どうしても。
立川武蔵著『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』(、講談社、1998年刊)にも、<当時の留学生は、二〇年間唐で学んで帰ることになっていた。空海も二〇年分の資金を持っていった>、と書いてある。
しかし、空海という人、知れば知るほど面白い。留学生ではある。だが、宮坂宥勝著『空海 生涯と思想』(筑摩書房、1984年刊)には、こうある。
<空海はまだ無名の一青年僧であり、二十年を期間とする長期留学生であった。それもおそらく何らかの事情で欠員ができたため、補欠として留学生に選ばれたようである>、と。短期視察目的の還学生(げんがくしょう)として入唐した、最澄とは異なる。
血気にはやる若い男が、何とか遣唐使の一行に加えてもらい先進国・唐へ渡る。勉強をしてこい、と。しかし、早々に戻ってくる。「オレが、日本を変えるんだ」、という意気込みで。空海、いかにも人間臭い男である。
松本清張にいたっては面白い。
その著『密教の水源をみる 空海・中国・インド』(講談社、1984年刊)には、こうある。
<空海だけがなぜ長安行きを許可されなかったのか。・・・・・空海は福州観察使に与える第二の啓で、「日本国留学の沙門空海啓す」と書き、・・・・・沙門とは未だ僧位なき一般僧の称である。・・・・・その師恵果が青竜寺で入寂したので、「この上長安にとどまってももはや学ぶところがなかった」と空海伝記の解説はいうが、これは空海が正式な留学僧でなかったことを示す>、と記す。
もちろん、松本清張、空海の抜群の語学力、並みはずれた才能を認めた上での記述である。
同行二人、お大師さま、と深い信仰を集める空海、それはそれ。だが、一介の青年僧、野望に燃える若い男・空海も、なかなか面白い。人間として。
空海展からは、少し離れたかな。