8月15日正午。

今日、8月15日。武道館よりのNHK中継に合わせ、正午、黙祷。
壇中央へ歩まれ、静止された今上天皇の後姿、やや左側に傾かれているように見えた。お年を召されたな、と感じられた。
今上天皇には、百歳の長寿を全うしていただきたい、と願っている。戦の愚を、誰よりも深く、真摯にお考えになられているのは、今上天皇であり、その愚を風化させず、国民に思い起こさせてくれるのも、今上天皇その人を措いていない故である。
その後、野坂昭如著『「終戦日記」を読む』(朝日文庫、2010年刊)を読む。
昭和40年5月、京都の古書市で求めた日記を手始めに、以後10年間、眼につく限りの日記を買い求めたそうだ。著名人から庶民のものまで。この書の第5章が、「八月十五日正午の記憶」。
<「ポツダム宣言」受諾の日は、昭和二十年八月十四日。・・・・・八月十五日は、玉音放送の日でしかない。そして、この詔勅に、一言も、「敗戦」の言葉はもとより、これを暗に伝える語句もない。・・・・・原子爆弾、ソ連参戦がなかったら、血気にはやる軍人でなくても、ちょっと、「アレッ」の気分だったと思う>、と野坂昭如は書いている。
<あの詔勅こそは神の言葉だった。この時、天皇は現人神になり給うた。・・・・・玉音放送はお告げ、日本人は生き残った。と、したりげにいえるのは、六十年を経た今になってからこそだが、当時の日記を読み返せば、ぼくの、この、あるいは偏寄った考え方に、そう間違いはない>、とも記す。
野坂昭如、当時14歳。こうも書いている。
<十五日、玉音放送以後、ぼくは、ただうれしかった。・・・・・やはり、「死」はすぐそばにあった。戦争が終わって、ようやく判った。死ななくていい、・・・・・>、とも。
何人かの文士の8月15日正午を引く。
<荷風の十五日、まず天候を記し、以下、ほとんど食いものについてのみ記す。最後の一行、「休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。欄外に、「正午戦争休止」とだけ>。
さすが荷風、というか、アレマッ、というか、いかにも荷風らしい記述だが、やはりこれは例外、特異例だ。多くの人は、
<海野十三の日記。 本日正午、いっさい決まる。恐懼の至りなり。ただ無念。しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。・・・・・>。
ウーン、こう考える人も多くいただろう。
<高見順の日記。 十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。・・・・・遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。・・・・・>。
おそらく、当時の日本人の平均的な受けとめ方であろう。文士らしい言いまわしではあるが。
<徳川夢声の日記。 正午の時報がコツコツと始まる。これよりさき、私は自分の座布団を外し、花梨の机に正座し、机に置かれた懐中時計を(この時計がなんとアメリカ製のウォルサムなのである!)見つめていた。・・・・・玉音が聴え始めた。・・・・・、この佳き国は永遠に亡びない! 直観的に私はそう感じた>。
戦時中に、アメリカ製の時計を使っていたとは不思議ではあるが、やはり、臣・夢声。大方の人、こうであったであろう。
<山田風太郎日記。 帝国ツイニ敵ニ屈ス>。
あの一筋縄ではいかないリアリスト・山田風太郎らしい言葉。そう思うのだが、野坂昭如、こう書いている。
<そこへ、死ななくてもいいと、神のお告げ、十四歳のぼくは、単純に空襲がなくなると、ホッとしたが、二十三歳の山田風太郎は、「ツイニ敵ニ屈ス」と、はっきり受止めている。・・・・・そしてこれ以外、いえない。・・・・・>、と記し、続けて、
<東京五輪のマラソンランナー円谷幸吉の遺書・・・・・の、羅列と同じ。嘘じゃない、言葉の極言>、と書いている。
野坂昭如は、そう思ったのだろうが、これは、解かり難い。リアリスティックで直截だ、という点では、たしかにそうではあるが。
続き、明日にする。