8月15日正午(続き)。

ところで、昨日の正午、テレビ画面に向かい黙祷をした後、野坂昭如の『「終戦日記」を読む』の文庫本を読んだ。昨日、記した通りだ。
ところが、途中で、これ以前に読んだな、と感じた。いつだったか、野坂昭如がテレビで話していたヤツだ、と。何年前だったかも忘れていたが、NHKの講座で何度か聴いたことを想い出した。テキストもあったはずだ、と。
私が持つもの、碌でもない雑本ばかりで、それがゴチャゴチャになっているが、気になる何人かのものは、一応それぞれ纏めてある。野坂昭如もそのひとり。探したら、すぐ見つかった。NHK人間講座、2002年8月〜9月期のテキスト。
教育テレビで週1回、午後11時から30分の番組、となっている。2002年といえば、9年前。まだ仕事をしているころで、日を跨いで帰ることが多かった。ふた月、9回の放送で聴いたのは、おそらく、半分程度だったのじゃないか。3〜4回だったかもしれない。
文庫本には、写真がないが、NHKのテキストのほうには、モノクロで不鮮明ではあるが、多くの写真が載っている。昭和20年8月15日正午の写真も。
そのNHKのテキストから複写したものを何枚か載せる。

66年前の8月15日正午、徳川夢声は、座布団を外し正座して玉音放送を聴いていたが、町中では、こうして聴いていたようだ。
皆、直立し、頭を垂れている。

同時刻、工場でも。頭を垂れて聴いている。
玉音放送、当時46歳の東京の会社員の日記には、こうある。
<その陛下の御声は、血を吐くの切々たる心がこめられていた。国民として雲上の玉声を拝するこの上もなき光栄は、永く頭の奥に銘記しなくてはならぬと思った>、と。
何しろ、ほとんどの国民は、天皇のお声を聴くのは初めてのこと。そうであろう。
常に天皇の肉声に接していた内大臣・木戸幸一は、日記にこう記す。
<正午、陛下御自ら詔書を御放送被遊。感慨無量、只涙あるのみ>、と。
<この感慨は、彼なりに、国体を護持し得た。その立場として、補弼の任を全うした、やはりホッとしたであろう>、と野坂は木戸の心を推し量る。
「あの詔勅こそは神の言葉だった。この時、天皇は現人神になり給うた」、の野坂昭如は、<ラジオの雑音、玉音の抑揚、この時、日本人は都合よく、神の言葉に従った>、とも書いているが。

昭和20年8月15日の朝刊は、玉音放送、つまり、ポツダム宣言受諾、終戦の詔書が発表された後、発行された。
野坂のテキストには、<十四日午後一時、マスメディアに、「宣言受諾」、十五日発表の旨、通達された。もちろん部外秘>、とある。
最終的にポツダム宣言を受諾するまでの、ああだこうだの経緯については、寺崎英成が纏めた『昭和天皇独白録』(1991年、文藝春秋刊)の中で、昭和天皇、案外語っておられるが、それについては、何度か触れた憶えがある。
より詳しい記述があるのは、読売新聞社編の『天皇の終戦 激動の227日』(1988年、読売新聞社刊)。
この書、読売新聞が、9年近くをかけて連載し、纏めた『昭和史の天皇』の昭和20年、終戦間際を底本としたもの。オーラル・ヒストリー、つまり、聞き書きによる歴史。1万人近くの人に話を聴いたそうだ。だから、やけに詳しい。ポツダム宣言受諾の経緯も、終戦の詔書が成るいきさつに関しても。
同書によれば、「終戦の詔書」の原案というか、草稿を書いたのは、当時の内閣書記官長(今でいえば、内閣官房長官)であった迫水久常。それが成る経緯が、とても面白い。いろんな人が絡んでるんだ。ヘェー、と驚く案外フランクな会話もある。
それはともかく、これは8月16日の毎日新聞。

この写真、とてもよく知られたもの。私でも、知っている。もちろん、リアルタイムではないが。
元の写真自体、不鮮明であるが、玉音放送、終戦の詔書を聴き、宮城前の玉砂利の上で土下座する人たちの姿。添えられたキャプションには、「忠誠足らざるを詫び奉る(宮城前)」とある。
野坂昭如によれば、この、<玉砂利の上で土下座平伏の姿は、十四日午後、皇居、焼跡整理に奉仕の、福島県の人たちである>、と。新聞各社、この事態をいかに伝えるか、しのぎを削っていたものと見える。だから、ヤラセ写真も。
しかし、この写真が表している”忠誠足らざるを詫び奉る”心情、理解はできる。終戦の詔書が発せられた日、永井荷風のように祝宴を張っていたのは、海外生活を経験し、その事情に通じたごく少数の人たちだけであったであろう。
この紙面の左上には、「阿南陸相自刃す」の記事がある。
陸相・阿南惟幾、最後まで戦争終結に反対していた。徹底抗戦を主張した。ギリギリのポツダム宣言受諾の議論に関しても、国体護持のみでの受諾には反対した。
昭和20年8月14日、最後の御前会議でも、それを主張した。だが、終戦の詔書には署名した。陸軍大臣・阿南惟幾として。何故か。昭和天皇への忠義心故。
阿南惟幾、8月14日の御前会議の後、自宅へ戻り、義弟と酒を酌み交わす。そして、15日未明、自刃する。
「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺すへき片言もなし」の辞世の歌と、「死以て大罪を謝し奉る」の言葉を残し。阿南惟幾、多くの民草と同じく、天皇の赤子であった。
阿南惟幾については、これまでも8月が来るたびに書いている気がする。昨年の8月14日にも触れている。だから、今日は、これで措く。