写楽(続きの続きの続きの続きの続き)。


写楽は誰か、といろんな人がガタガタ言って、素人探偵の大幅参入が、写楽を謎の存在としてしまったのだ、とやや憤然としている人が、中野三敏だ。
芸苑に一家言ある人や、観賞眼において一見識ありと自負する知識人が、我も我もと参入してくるばかりか、まったく専門外の知識人までが参入してくる。写楽誰それ説の大合唱は、ごく近年のことなんだ。だいたいにだよ、あなた、少なくとも江戸時代はおろか、明治、大正、いや、昭和も戦前までは、ほとんど目立った動きはなかったんだよ。
何故かって? 写楽は誰かは、明々白々であったんだから。
斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に出てるじゃないか。記述が短いって? 何言ってんだよ、あなた。ほとんど1000人に近い浮世絵師の中で、彼は、他の人に較べ、極めて明瞭な存在なんだよ。写楽以上に明らかな存在は、僅々数名にしか過ぎないんだよ。
珍しく自己を語ることの多かった葛飾北斎、500石取りの御旗本という歴とした身分の鳥文斎栄之、この道の鼻祖・菱川師宣、それに、喜多川歌麿と歌川広重あたりまでなんだ。その他、百・千の浮世絵師の大半は、ほとんどが残された画績とその画名を明らかにするだけなんだ。解かる?あなた。
少し荒っぽく要約すれば、中野三敏、その著・『写楽 江戸人としての実像』の冒頭に、こう書いている。
そして、こう続ける。
<さて、これから記すのは、そうした写楽という絵師の、実像の、跡追いの、過程である。敢えて言えば、そこでは彼の画績そのものは一切扱わない。ひたすら文献資料のみに拠る写楽実像の追跡である。絵師を取りあげるのに、肝心の絵を度外視するとは何事というお叱りは覚悟の上のこと>、と記す。
中野三敏、江戸文化を専門領域とする学者である。まずは、「江戸文化における”雅”と”俗”」、という問題が述べられる。
江戸時代、大まかに言って、17世紀から19世紀。これも大まかに言って、前期上方文化期と後期江戸文化期に二分される。文芸の世界に例をとれば、元禄期に西鶴、芭蕉、近松、化政期(文化・文政)に京伝、三馬、馬琴、一九、一茶、と二つの山がある。中野三敏、これは、従来型の考えだ、という。
これに対し、中野三敏は、”雅”と”俗”というキーワードを持ちこむ。”雅の文化”と”俗の文化”。前者は、伝統文化、後者は、新興文化。江戸初期は、”雅高俗低”、江戸末期は、”俗高雅低”、と。やや乱暴な気もするが、まあ、そう規定する。中野の述べる理由もあるのだが、長くなるので省く。
江戸中期、大まかに18世紀、享保の改革(1716年)から寛政の改革(1793年)の時期の、江戸の成熟した文化が、いわば、バランスのとれた”雅俗融和の世界”である、とする。いわば、ふた瘤ラクダ型の従来の捉え方に対し、いわば、富士山型。
量と質とか、上位と下位とか、当時のさまざまな文献資料が出てくるが、ややこしくなるので、それは省く。
ただ、写楽を考える場合、中野三敏が記す、このことは、引いておかなければならない。中野三敏、こう書いている。
<そして歌舞伎役者はさらに庶民以下の存在であり、・・・・・その役者の姿絵を画くのが役者絵というもので、そのことに当たる役者絵師の存在が、どのように扱われたかは思い半ばに過ぎるものがあろう。・・・・・>、と。
この後、『浮世絵類考』と斎藤月岑のことが、滔々と語られる。それはそれで面白いのだが、ここでは、すべて省く。
ただ一点のみ。『浮世絵類考』の決定版・『増補・浮世絵類考』を著わした斎藤月岑(1804〜1878年)、明治11年まで生きているのだ。その間、『江戸名所図会』20巻をはじめとし、実に多くの書を上梓している、ということだけを。
しかしだ。文献資料のみで写楽を追う、と宣言している中野三敏のシャカリキな凄さが現れるのは、ここからだ。

『江戸方角分(ほうがくわけ)』と、同書と写楽の関連づけの記述に入るのだ。中野三敏、リキが入る。この部分だけで、この書の半分以上のページを割いている。中野三敏、このことを述べたかったのだ。
こう書き出される。
<私が『諸家人別 江戸方角分』の持つ写楽跡追いの材料としての重要性に気づいたのは、昭和40年代の後半、まだ名古屋の一女子短大に在職していた・・・・・>、と。
『江戸方角分』とは、<書名に見える通り、当代の江戸の芸苑の諸家をその住所方角に従って分類し、その技芸、通号、別号、俗称を明記した人名録と言えばよかろう>、というもの。
その概略から、来歴、特色、諸本諸誌、その他さまざまな考証が綴られる。「江戸と京坂」なんてものなら解かるが、「”イ”本が”ロ”本に先行する理由」とか、「故人印の照合」とか、小見出しを見ただけでは、何のことやら解からないような記述が続く。もっとも、中を読んでも、ややこしくてよくは解からない。そのような記述が、延々と続く。だから、もちろん、引用はしない。
要するにだ、中野三敏、こういうことを言っているのだ。東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛を、文献その他の資料から、間違いない、としたのは、オレなんだ、ということを。
『増補・浮世絵類考』ばかりじゃなく、『江戸方角分』を読みといて、と。昭和40年代後半以来ずっと、と。実際には、昭和52年(1977年)に、『江戸方角分』その他資料の詳しい報告をしたそうだが。
それにしても、いや、そのシャカリキさ、ハンパじゃないんだ。凄い、としか言いようがない。
どうしてか?と思うでしょう。あなたも。
その答えが、巻末、「おわりに」に書いてあるんだ。なるほどな、とも思い、やや笑っちゃうようなその理由が。こういうことなんだ。
<・・・・・次第に私のプライオリティーが溶解されて、いつのまにか、読みようによってはすべてがその人の説となるような記述にも出くわし、実際、その後はその線での解釈も生れている実例もある。人文系の学説にはありがちな例とも言えるが、このような場合、その実体を指摘すると、いや、これはもはや学界の共有財産ですからと、・・・・・>、と記している。さらに、
<そこで敢えてそのプライオリティー確保という大人気ない所業に及んだのが、この書となった。人間、古稀を越えれば時には子供に帰るのも許されよう。・・・・・>、と続ける。
そうなんです。中野三敏、「みんな、オレの発表した説をパクリやがって」、と怒っているんです。特に、『江戸方角分』の分析結果。中野さん、学者だから、”パクル”なんてハシタナイ言葉は使っていないのだが、言っていることは同じこと。
私の「写楽」ブログ、その2回目で、NHKの番組に触れた。その中で、「NHKのこの番組、何人もの専門家を使い、NHKが、写楽の正体を特定したように言っているが、内田千鶴子や中野三敏のパクリじゃないか」、というようなことを書いた。
学者じゃない私は、”パクリ”というハシタナイ言葉を使った。あの番組、好評だったようだが、内田千鶴子や中野三敏の書を読んでいる人には、私同様、違和感を持った人、多かったのじゃないか。そうだ。「NHK、中野三敏に挨拶してるのかな」、とも書いた。
NHKの番組、ひと月以上も前のものなので、だんだん記憶も薄れているが、中野三敏云々の、言及もクレジットもなかったように思うが。「もし、あったら、ごめんなさい」、だ。これ、向井万起男が、時折り使う言葉。今日は、水曜日だ。朝日の夕刊に、向井万起男の「大リーグが大好き!」が載る日。今日も、「もし・・・・・、ごめんなさい」、が出てきたな。
それにしても向井万起男、大震災が起きようと、原発がメルトダウンしようと、そんなことには一切触れない。ひたすら大リーグのことだけしか書かない。それだけを追っかける。マフィアの男が、ジャイアンツに金を賭けて云々、なんてことだけを。いやー、大したもんだ。ヤワな私は、向井さんほど徹しきれないな。それより、いつの間にか、横道にずれちゃったな。戻ろう。
戻ると言っても、眠くもなった。何だか、長くもなったし。最後に、この写真だけ載せておこう。

東博の「写楽展」、平成館の入口横の壁面に貼ってあったもの。
この写真で、東博で撮った看板や壁面の写真、すべて使い尽した。「続き」が、これほど長くなるとは思わなかったので、写真のやりくり、苦労した。
それはともかく、これは、写楽、第二期の大判錦絵だ。<二代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川>。背は、黒雲母摺り。
そういえば、存命中の池田満寿夫、こう言っていた。ひょっとすると、写楽が描いたのは、第一期か第二期ぐらいまでで、第三期や第四期のものは、写楽ではないんじゃないか、と。絵描きの直感だが、と。
池田満寿夫の言う写楽=中村此蔵説も、第一期か第二期ぐらいまでで、というのも、間違いではあるのだが、直感の池田満寿夫は、パクリはしなかったよ。誤りではあっても。
写楽、これでオシマイ、とする。
アーティスト、4人続けた。たけしは、1回。蔡國強は、2回。ギューちゃんは、3回。そして、写楽は、6回か。
考えるに、たけしが1とすれば、蔡國強はその2倍、ギューちゃんは3倍、写楽は6倍、パワフルだ、ということかもしれない。
私の潜在意識下では。