写楽(続きの続きの続きの続き)。


専門家とか、研究者と言われる人は、周りから眺めれば、面白いとも言え、おかしな人とも見える。
これと決めたことには、皆さん、シャカリキになる。
ユリウス・クルトにしろ、ヨーロッパの地を一度も離れたこともないのに、1910年当時、日本人でさえほとんど興味を持っていなかった写楽のことに、シャカリキになる。
昨日触れた『写楽 よみがえる素顔』の中で、著者の定村忠士、こう記す。
<クルトの手元には、今日現在わかっている写楽の作品142点のうちおよそ90点以上の作品の資料(現物または写真版)があり、100点をはるかに越える作品を確認していたようだ。・・・・・クルトは明治22年(1889年)出版の『増補浮世絵類考』(おそらく畏三版)を読み、斎藤月岑の記述をきっちり踏まえていたのである。・・・・・式亭三馬の『稗史億説年代記』も栄松斎長喜の・・・・・、写楽情報のうち、クルトがつかんでいなかったものは、達摩屋五一本の「栄松斎長喜老人の話」と十返舎一九の黄表紙「初登山手習方帖」くらいのものであった。・・・・・>、と。
その定村忠士も、シャカリキでは負けない。
写楽第4期の相撲絵、<大童山土俵入>(松本清張が小説『写楽』で、写楽、心ならずも、と写楽の心中を思いばかっていた作品だ。相撲好きな私は、面白い絵だ、と思っているが)に関し、こういうことを調べているのだ。
土俵入りをする、当時7歳の怪童・大童山の周りに、左右5人ずつ計10人の相撲取りが描かれている。名横綱・谷風や、天下無双の大関・雷電がいる。しかし、どう考えても、よく解からない力士も混じっている。
定村忠士、写楽は、どういう基準でこの10人をえらんだのだろう、と考える。番付順か、人気順か、この場所の勝ち星順か。両国国技館、相撲博物館へ行く。
長くなるので、細かいことは省くが、江戸時代の星取表から、<大童山土俵入>に描かれた10人の力士すべてが出場した日を、特定する。当時の相撲取り、案外、「や」、つまり、休みが多いんだ。
この10人全員が出場した日が、ただ1日だけあった。それは、寛政6年の11月場所二日目であった。<写楽は、寛政6年11月17日、本所回向院境内の相撲場に現れた>、と定村忠士は、書いている。
私は、日本相撲協会の現理事長・放駒が好きである。四六時中、文科省に呼びつけられて、若い役人に頭を下げている。その様を見るにつけ、気の毒な思いを抱き、時として、文科省のクソ役人、と叫びそうになる。致し方ないことではあるにしろ。
ところで、放駒、相撲の伝統、土俵を守るだけでなく、相撲博物館も守ってくれ。しかし、相撲博物館、相撲に似あわぬチッポケな博物館だが、展示していない資料も多いんだ。定村忠士さんのような人もいる。是非に。
ところが、専門家、研究者とは、どの分野にもいるものだ。
実は、寛政6年の11月場所、<大童山土俵入>に描かれた10人の力士の出場日を特定していた人が、それ以前に2人いたことを、後で知った、と定村は記す。相撲史家の小島貞二と徳島の写楽研究家・田村善明の二人がいた、と。
専門家や研究者と言われる人の執念は、凄い。

実は、凄いと言えば、定村忠士、蔦重・蔦屋重三郎の店、耕書堂の年商、経営規模も調べている。
その前提とし、定村忠志、江戸期の出版事情から入る。
本1冊ができあがるまでの手順はじめ諸々のことを。で、印刷の見積書を作る。耕書堂・蔦屋、浮世絵も出しているが、黄表紙、洒落本などの総合出版社だ。
原稿料、画料、筆耕料、彫板料、彫刻(文字)、彫刻(絵)、仲間入料、本文用紙料、表紙用紙料、摺賃、作料分(仕立賃)、題簽料、大まかに言えば、1冊の本を作るためには、このようなコストがかかる。錦絵、つまり、浮世絵の場合も、原稿料、筆耕料、彫刻(文字)、表紙、作料分などはかからないが、手順の基本は、同じである。
これらをはじき出すには、どうするか。
蔦屋重三郎と同時期の二人の学者、林子平と本居宣長の書のコスト資料を用いる。
林子平が、『海国兵談』の予約購読の申し込みを訴えた文章が残っている。これだけの経費がかかるから、という経費明細。上里春夫著・『江戸書籍商史』という書物にあるそうだ。
本居宣長も、写楽や蔦重と同時代人。蔦重、山東京伝や歌麿、写楽などの大衆書や錦絵を出す一方で、国学者・宣長の書、つまり、硬い本も出している。寛政7年には、『玉勝間』、翌8年には、『出雲国造神寿後釈』を出版する。しかし、宣長の歌集『鈴屋集』は、そうはいかなかったようだ。
いつの時代でも同じだ。詩集や歌集は売れない。宣長といえども。翌寛政9年、宣長は、『鈴屋集』を自費出版する。そのコスト明細が残っていた。東大や国学院の先生に教えを請い、定村忠士、それをも分析。参考にしたもの、他にもあるのだが、ややこしいので、すべて省く。
個々のコストも割り出しているのだが、これも、すべて省く。

そして、定村忠士、「寛政期出版の原価計算試算案」というものを作成する。
ご苦労さま、と言いたい。でも、面白い。
黄表紙(美濃紙半截二つ折り、本文5丁)、洒落本(半紙半截二つ折り、本文48丁)、錦絵、摺部数各1000部、の原価を算出する。2000部、7000部の時のコストも。それぞれの原価率、利益率も、自ずとはじき出される。
売価は、黄表紙は、10文、洒落本は、100文、錦絵(浮世絵)は、二八、つまり、ソバ代と同じと言われているそうだが、20文としている。
安い黄表紙では、初版1000部では、採算がとれない。最低でも2000部は売りたいところ。高い洒落本では、1000部でも利益が出る。錦絵は、1000部でも十分利益が出る。十分どころか、利益率62.5%である。かりに、2000部、7000部にでもなった時には、ウハウハの大儲け、となる。
定村忠士、こういうことを突き詰めていく。こういうことも、書いている。
蔦屋での黄表紙の初版は、2000部なんてものではない、と。山東京伝の『心学早染草』の初版は、7000部。板木が摩滅し、再版7000部を摺ったが、また板木が摩滅、再々版の板木を起こした、と。馬琴も、当たり作は、1万2〜3000部、さらに・・・・・、ということだったそうだ。さすが、江戸の大出版社・蔦屋だ。如何に大衆読み物とはいえ、大したものだ。
なお、錦絵の初版摺り部数は、3〜400部程度であった、という。逆に言えば、錦絵で7000部も摺られることは、まずなかったろう、としている。そうか。だから、写楽の錦絵も、わずか10か月という短期間に、146点もの数が発行されたんだな。
最後に定村忠士、耕書堂・蔦屋重三郎の年商をはじき出す。
細かいことは省くが、蔦屋の年商、1700〜2000両、と。米の価格を基準として計算すると、今の金で、1両が約6万円になるそうだ。それから言えば、蔦屋の年商、約1億強、となる。江戸を代表する板元とはいえ、蔦屋、個人出版社、あの時代、大したもの、と言えるのじゃないか。
なお、当時の日本一の呉服商、江戸駿河町越後屋本店の年間売上げは、11〜16万両。蔦屋の年商、その1/100となる。
呉服商・越後屋、今の三越であろう。今の三越、伊勢丹と経営統合、三越伊勢丹ホールディングスとなっているが、その直近(2011年3月期)の売上げは、1兆2200億。
また、小学館や講談社といった大手出版社の年商は、1200〜1300億であろう。出版社の売上げ、このところ何年か年々落しているが、それはデパート業界でも同じこと。その比率、1/10となっている。
何のかのと言っても、出版業、江戸時代に較べれば、その社会活動、生産活動の重み、はるかに増した、ということは確かだな。
どうも今日のブログ、写楽からは、少し離れちゃったかもしれないな。いや、離れたよ、なー。
定村さんがシャカリキになって蔦重、耕書堂・蔦屋重三郎のことを追いかけているのが面白く、つい、話が、相撲や出版のほうにいってしまった。
いずれにしろ、専門家とか、研究者と言われる人、面白くもおかしな人たちだが、凄い人たちだよ。ホント。