写楽(続きの続きの続き)。


写楽を追いかける人、どなたも必ず触れる名前と書がある。専門家であろうと、なかろうと。
ユリウス・クルトと『浮世絵類考』である。
ドイツ人、ユリウス・クルトの著・『SHARAKU』が刊行されたのは、1910年(明治43年)のことである。それまでは、日本でもさしたる写楽論はなかった。つまり、写楽、そう注目に値する浮世絵師ではなかった、という。これらのこと、引用先を書くべきだが、実は、先人の皆さん、おしなべてすべて、そう書いている。
また、皆さん、第一期から第四期に渉る写楽の刊行順、クルトの記述は逆である、とも揃って述べている。おしなべて。
だから、クルトに関し、<・・・・・一度もヨーロッパの地を離れることなく書き上げた写楽論であってみれば、寛政期の・・・・・>、という記述のある、中野三敏著・『写楽 江戸人としての実像』(中公新書、2007年刊)に、引用先代表となっていただこう。
いずれにしろ、母国・日本では、写楽、WHO、なんてことが云々される前のことである。
ついでながら、大正期以降も、写楽を追う人は幾らかはいるが、少ない。写楽の正体探しが喧しくなるのは、戦後。それも、昭和30年代以降だ。
丸山応挙、谷文晁、鳥居清政、酒井抱一、葛飾北斎、喜多川歌麿、歌川豊国、山東京伝、十返舎一九、司馬江漢、中村此蔵、谷素外、その他多くの寛政6年から7年にかけて存命していた人たちが、写楽に擬せられた。
キャバレー・ハリウッドの事務所に「写楽捜査本部」の看板を掛けて、福富太郎が、そのアリバイ崩しをしていた人たちばかり。もちろん、この他、斎藤十郎兵衛と蔦屋重三郎の二人は、最重要容疑者だ。
その点から言えば、松本清張が、昭和32年に、小説『写楽』で、写楽=斎藤十郎兵衛と特定したのは、非常に早い時期だと言える。絶対の書『浮世絵類考』を下敷きにした、フィクションだとはいえ。
その『浮世絵類考』、浮世絵師事典のようなもの。江戸後期の大文化人・大田南畝の原撰によるものを嚆矢とする。いつ頃か、に関しては、寛政元年ないし2年頃、という記述が多い。
面白いのは、この書、蜀山人・大田南畝の原撰本をもとに、写本につぐ写本、さまざまな人による書きこみ、増補が続く。山東京伝、加藤玄亀、式亭三馬、その他多くの人により。「追考」、「続」、「新増」、「異本」、その他。定村忠士著・『写楽 よみがえる素顔』(1995年、読売新聞社刊)には、その数、実に158種にのぼる、との記述がある。
その決定稿とも言えるものが、天保14年(1843年)の斎藤月岑(げっしん)の手になる『増補・浮世絵類考』。これが、その後の写楽像を作りだす。
どの人の書にも出てくる斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』、上記の定村忠士の書には、写楽の項、全文が出ている。もちろん、さほど長いものではないが、その前半だけ引いておく。
<○写楽  天明寛政年中ノ人 俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀ニ住す 阿波侯の能役者也 歌舞伎役者の似顔を写せしがあまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかハ長く世に行れず一両年にて止む 類考 三馬云 僅に半年餘行るヽのミ ・・・・・>、というもの。
句読点はなく、ひらがなとカタカナが、不自然に混ざりあっているが、よく知られた写楽像だ。もちろん、「写楽の正体は誰々」説を主張している人も、その頭には、この文言、常にある。
しかし、「写楽は誰々」説で、それまで誰も考えつかなかった説を打ち出したのが高橋克彦だ。もちろん、ユリウス・クルトも『増補・浮世絵類考』も、読みこんだ上で。

高橋克彦の写楽説、それまでになかったもの。画期的な説である。
何が、画期的か。写楽の正体、秋田蘭画の無名絵師・近松昌栄だ、と特定した。このこと、「そうか」、ではすまされない。
何故なら、今まで、「写楽は○○」説の○○、浮世絵師であろうと、なかろうと、すべて江戸の住人だ。写楽の正体、江戸以外の住人としたのは、おそらく、高橋克彦以外にいないだろう。
暫く前、震災がらみで書いたことがあるが、私は、高橋克彦の小説を読んだことはなかった。大震災の後、ヘーと思い、高橋の『・・・の記憶』三部作を読んだのが、初めて。今回、写楽がらみで、高橋克彦の『写楽殺人事件』(昭和58年、講談社刊)を読んだ。
この小説、同年の第29回江戸川乱歩賞を受賞している。高橋克彦のデビュー作。力作だ。ミステリーとして面白い。引きこまれる。しかし、写楽本、浮世絵書としての面白さ、それ以上のものがある。
浮世絵界の内幕ものとしても、面白い。業界、学会問わず、なるほどな、と思わせる。
二つに割れた研究者団体が、お互いに反目し、勢力争いをしていることも、どの世界に限らずよくあること。教授が、弟子の業績を横取りしてしまうことも、ままあることだろう。上手くいけば30億には、というサザビーズを舞台にした企みも、ないとは言えない。
3人の男が殺される。3人組の同一犯に。2人は、巧妙なアリバイ工作をした上での殺害。1人は、自ら遺書を認めてはいたが、殺される。手の込んだトリックが入り組む。アリバイ崩し、ミステリーとしては、突っ走ってしまうような感も受けるが、それは、高橋克彦自身が、浮世絵そして秋田蘭画の世界を、あまりにも追いかけたからではないかな、と私には思えた。
浮世絵の専門家、高橋克彦の描く、寛政10年(<東洲斎写楽改近松昌栄画>の秋田蘭画が描かれた年だ)のその世界、それほどに面白い。


秋田蘭画、寛政期、秋田で独自の発展をみた。言ってみれば、絹本に描かれた西洋風の油彩画だ。秋田で広がったのには、平賀源内が関わっている。源内が持ちこんだ。秋田蘭画の代表作家は、小田野直武。秋田藩主・佐竹曙山自身、秋田蘭画の名手である。
秋田市立千秋美術館には、小田野直武や佐竹曙山の作品がある。10年ほど前、竿燈を見に行った時、観に寄った。
ついでだが、秋田の富豪、平野政吉のコレクションを展示するその近くの平野政吉美術館には、藤田嗣治の作品が多くあるが、「秋田の行事」というタイトルのバカデカい絵が展示されている。
高さ4メートル近く、左右は20メートル余、というデカい油彩画だ。ついでついでに言えば、先日触れたギューちゃんの作品は、もっと大きい。それはともかく、この藤田嗣治の「秋田の行事」、マチエールなど藤田のものには違いはないのだが、あまり大きすぎて、かえって藤田らしさが感じられない。
高橋克彦の小説に戻る。
大学の浮世絵研究室助手の主人公、神田の古書会館の古書市で、一冊の画集を手に入れる。そこに、<東洲斎写楽改近松昌栄画>の文字を見つける。これ、犯人側の企みだ。秋田蘭画の発祥地・角館へ行く。主人公、若い男だ。恋模様も少しはあるが、それは付けたし。高橋克彦の描く世界、あくまで主体は、浮世絵の世界。
ユリウス・クルトのことも、『浮世絵類考』のことも、斎藤月岑のことも出てくる。もちろん、蔦重のことも、斎藤十郎兵衛のことも出てくる。蜀山人・大田南畝も、丸山応挙も、谷文晁も、山東京伝も。歌麿、北斎、豊国、その他多くの浮世絵師のことも。秋田蘭画の小田野直武も、佐竹曙山も、佐竹義躬のことも。幕府老中・田沼意次のことも。
これでもか、と浮世絵ばかりじゃなく、江戸寛政期の文化事情が出てくる。これが、とても面白い。惹きこまれる。
実は、この後、どう書こうかな、と今、悩んでいる。
高橋克彦のこの小説、読んでいる人もいれば、そうでない人もいるのだから。私にしたって、ついこの間読んだばかりだし。あなたは、高橋克彦が、写楽は秋田蘭画の絵師・近松昌栄だ、と特定したことを、どう思いますか?
いや、写楽の正体は、阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛ではあるのですが、秋田蘭画の絵師・近松昌栄のことを、どう思われますか?
高橋克彦、最後にこう明かす。近松昌栄は、虚構の男だと。高橋克彦が創りだした絵師なんだ。よくできた小説、フィクションだ。だまされるよ、最後まで。
しかし、世にある多くの写楽本には、主な写楽別人説の中に、写楽=秋田蘭画の絵師・近松昌栄、提唱者、高橋克彦、昭和58年、との記述がある。面白い。
それほどに、高橋克彦の写楽物語は、面白く、高橋克彦の論旨、それもまた、見事だ、と言える。