ギューちゃん。

蔡國強の顔貌と、短く刈り込んだ頭を見ていると、ギューちゃんを思い出した。よく似てるんだ。ギューちゃんの頭は、モヒカン刈りだが。
ギューちゃん、本名は、篠原有司男。戸籍上は、牛男というそうだ。牛男とはヘンな名前だが、だから、ギューちゃん。大家から若いヤツまで、ギューちゃんを好きなヤツは、篠原有司男のことを皆そう呼ぶ。私も。
絵描きにしろ、もの書きにしろ、好きな作家というものはいる。私は、誰それが好きって作家が。それとは少しニュアンスが異なり、ファンというものがある。例えば、楽天のマー君のファンであるとか、サッカーなら長友のファンであるとか、若い女の子では、杏のファンであるとか、といったものが。
ハハハ、この3人は、ここ数年、私が勝手にファンになっている若い人たち。しかし、私のギューちゃんファン歴は、50年になる。
初っ端は、歌舞伎町の奥のネオダダの牙城・”新宿のホワイトハウス”(去年の初め、「日本遺産補遺・建築家」のところで書いたが、磯崎新の処女設計作だ)を訪れた時からだ。その後、近代美術館だったか、ブリジストンの講堂だったか、ギューちゃんが、イミテーションアートだと言ってイスから立ちあがった時、ニューヨークへ行く前の東京画廊での「花魁展」。その折々、ギューちゃんを追っていた。
1969年、ギューちゃん・篠原有司男は、ニューヨークへ旅立った。それから40年以上になる。時々は日本へ帰ってくるが、ギューちゃん、ニューヨークで闘っている。私も、まともな仕事につき、普通の生活の中にあった。しかし、時折り新聞や雑誌でもたらされるギューちゃんの動向には触れていた。
6〜7年前、まだ仕事を引退する前だが、夕刻、京橋のギャラリー山口へ寄った。ギューちゃんが日本へ帰ってきた時、小品展を開いていた画廊だ。ギューちゃんがいた。それどころか、ドアを押して入って行った私のほうをジロジロ見ている。他に客もいるのに。その内、「顔を描いてやろうか」、と声をかけてきた。
私は、驚いた。ギューちゃんの追っかけをしてきた私ではあるが、ギューちゃんと声を交わすのは、初めてである。一も二もなく応じた。小さなバイクの立体作品の前に立たされ、ギューちゃんは、1〜2秒見ただけで、「よし、イイヨッ」って言って、ペンで私の顔を描いてくれた。
私は、感激した。あのギューちゃんが、オレの顔を描いてくれた、と。
ところがだ、それがなくなっちゃった。どこかにいっちゃった。おそらく、大事なものだからと、どこかにしまいこんじゃったらしい。その後、探しても出てこない。
その2〜3年後、ギャラリー山口でギューちゃんの小品展が開かれていることを新聞で知った。行った。ギューちゃんがいた。2〜3年前、ギューちゃんに描いてもらった絵がなくなっちゃったことを、話した。
ギューちゃん、こう言った。「「しょうがねえな。また、描かなきゃなんないな」、と。
ギューちゃん、また私の顔を描いてくれた。「どういう絵にしようかな。そうだ、バイクに乗っている絵にしようか」、と言って。バイクに乗った私の絵を描いてくれた。もうなくすワケにはいかない。今度はキチンと額装し、居間の壁に懸けてある。
その時、ギューちゃん、こう言っていた。この秋に、名古屋の近所の豊田で大きな展覧会をするんだ、と。デカいオートバイを創るんだ、と言っていた。明後日にはニューヨークへ戻り、制作にかからなきゃならないんだ、とも。
その年、2007年の秋、豊田市美術館で、”前衛の道を突っ走る、二人の男”、霊長類最強のアーティスト・篠原有司男と、その弟分・榎忠の二人展が開かれた。
もとよりギューちゃんファンの私、見に行くつもりでいたが、ある日突然、明日行こう、と思い新幹線に飛び乗った。豊田は、トヨタの城下町。リーマンショックの前だし、アメリカでのトヨタバッシングの前だ。名古屋から1時間ばかりの豊田市、地方都市にしてはゆとりの感じられる町だった。
豊田市美術館も、立派な美術館、現代美術のコレクションに力を入れていることよく解かる。そこでのギューちゃんの展覧会、凄かった。


こんなデカいバイクがあるのだ。
その長さ、約9メートル。タイトルは、「地上最大のバイク」。後ろの絵もデカい。

反対側から見たバイク。
素材は、カードボード、プラスチック、ポリエステル樹脂、鉄。


このバイク、どのくらい大きいのか、写真の左の警備員の姿を見れば解かる。
後輪に較べ、はるかに小さな前輪の直径でも1メートル以上ある。

後側からみたら、こう。

より後ろから見ると、こうだ。迫力がある。


上から見れば、こうだ。
どうだ、この造形。カッコイイどころじゃない。ギューちゃんが到達した形。「文句あっか」、ってもんだ。