三島を観る(3) 『からっ風野郎』。

三島自裁の10年前、1960年に三島由紀夫主演の映画が作られた。『からっ風野郎』、ヤクザ映画だ。

このころの三島由紀夫、まだ2.26三部作は書いてはいない。「楯の会」も創っていない。国体や天皇のことは、考えていた。しかし、その結末を自らの割腹で締め括る、というところまでは思っていなかっただろう。役者になりたかったのだから。ともあれ、時代の寵児ではあった。
前年、ヒット作『鏡子の家』を書いた後、帝国ホテルで俳優宣言を行なっている。三島の主演で、という話が大映に持ちこまれた折り、時のワンマン社長・永田雅一は、一も二もなく「やれ」、と言ったそうだ。永田ラッパ、と呼ばれた男、あの三島が出れば当たる、と思ったのだろう。

監督は、東大で三島と同級生であった鬼才・増村保造。”大映スコープ”、”総天然色”、これも懐かしい表現だ。”文壇から銀幕へ、三島由紀夫、颯爽の登場”、という惹句もある。
三島が演じる主人公は、老舗ヤクザ朝比奈一家の二代目・政夫。シマを争う新興ヤクザ相良商事の組長をドスで刺し、ムショに入っている。
映画は、府中の、長く高い東京刑務所の塀の外を走る車の映像から始まる。朝比奈一家の二代目・政夫、2年7カ月のお勤めが間もなく終わるんだ。で、相良商事のヒットマンが、面会を装い、朝比奈一家の二代目・政夫を消す為、車を走らせてんだ。だが、偶然のいたずらで、別人を撃ってしまう。
ここまでは、そういうこともあろう、まあ、いい。しかし、この朝比奈一家の二代目・政夫、あまりカッコいい男じゃないんだ。女は泣かせる、切った張ったには意気地がない。
全身にモンモンを入れたオジ貴には、相良商事の組長を殺るにはハジキを使え、とドヤされる。大学出の兄弟分のインテリヤクザからは、足を洗えと諭される。何しろ、朝比奈一家、落ちぶれて、構成員はこの3人しかいない。組員も多く、流れのヒットマンも雇える相良商事とのシマ争い、勝ち目はない。
ついでながら、オジ貴役の志村喬、インテリヤクザの船越英二、相良商事の組長(社長か)の根上淳、なかなか良かった。三島由紀夫も一所懸命演じているが、まあ、素人の域を出ない。
上に掲げたポスターには、”現代やくざの非情な世界をダイナミックにえぐる非情の極致”、とあるが、そうではないよ。ヤクザ映画ではあるが、青春映画なんだ。朝比奈一家の二代目・政夫と、若尾文子扮する若い女との。初めは遊びのつもりであったが、それが、愛に変わっていく、という。
今一度ついでながらを入れると、私は若尾文子のファンではなかったが、今見ると、若尾文子、とても可愛かったんだ、と思える。50年前には、そう思ってはいなかった。当時の大映の若手では、野添ひとみの方が可愛かった。余計なことだが。
そんなことより、半月ほど前、東映の名誉会長・岡田茂が死んだ。ヤクザ映画の父、親分だ。
ヤクザ映画といえば、何と言っても東映だった。高倉健、菅原文太、藤純子、ゾクゾクする映画が続いた。皆、岡田茂が作った、と言ってよい。
高倉健の『網走番外地』、『昭和残侠伝』。着流しの高倉健が、手には白鞘の長ドス一本、単身、相手方へ乗り込む。ケンさん、カッコよかった。藤純子の『緋牡丹博徒』。片肌脱いだやわ肌には、緋牡丹の彫り物、逆手に持った匕首、緋牡丹のお竜、ゾクッとするほど美しかった。
高倉健や藤純子の映画には、何よりも、破滅の美学があった。ヤクザ映画には、滅びの美がなければならない。ヤクザ映画は、滅んでこそ美しい。
『からっ風野郎』の朝比奈一家の二代目・政夫も、最後には撃たれる。しかし、あまり美しい滅びではなかった。ヤクザ映画にはなり得ない、青春映画だからだ。
そう言えば、昨日歌舞伎町で飲んだ時、酔いにまかせ、”娘〜盛りを〜 渡世にかけ〜て〜 張った身体に〜 緋牡丹匂う〜”、と口ずさんだら、皆に笑われたな。緋牡丹のお竜が解からないヤツにも、困ったものだ。

読みづらいが、この映画の主題歌、作詞は三島由紀夫である。
「人でなしでも 人の子さ」、「惚れはさせても惚れはせぬ」、「すぎる殺気のうそ寒さ」。「からっ風野郎 あすも知れぬ命」。三島由紀夫、こういうものも書いていたんだ。可愛いところがある。
作曲は、深沢七郎。右の方に、”バイオリン奏者の”、となっているのは、誤りである。ご愛敬。深沢七郎、もちろん、ギタリストである。三島由紀夫、深沢七郎のデビュー作『楢山節考』を、強烈に押した立役者。
ただ、音楽の世界、元より洋楽から入った深沢の曲、ポップ調なんだ。残念ながら、私には、『網走番外地』や、『兄弟仁義』、『緋牡丹博徒』のような味はない。
唄うのは、もちろん、三島由紀夫。裕次郎をやや平板にしたような声だが、悪くはない。演技よりは、はるかに上。