今年の桜、これでオシマイ。

もう蕾をつけてるかな、と思い近所の公園に行ったのは、ひと月少し前。その後、毎日ではないが、近場の公園や桜木のあるところを歩いていた。
とは言っても、近場ばかり。半径1キロあるやなしや、といった範囲である。その程度でも、公園は幾つもあるし、学校の前、図書館への道、市役所の横、桜木は多く見られた。時には、民家の庭にも。
名木といわれるものとはほど遠い、ごく普通の桜木ばかりだが、楽しめた。しかし、五弁、一重の桜花は、あらかた散った。その間、ありきたりのものばかりだが、桜花の写真ずいぶん撮った。その中で、思いに残るものを2点、載せることにする。
今年の桜、これでオシマイ。
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10日ばかり前の近場の公園。満開となり、やや日が過ぎたころ。
7〜8割の桜花は残っているが、2〜3割の桜花は散り落ち、花漠となっている。夕陽が作る日影の中に、薄っすらと花漠が広がる。
この”花漠”という言葉、”花屑”や”花の塵”よりは良いだろう、と思って、去年私が創った言葉。”花筵”という言葉はあるが、それよりはもっと広い範囲に散り敷いた状態をいう。
言葉の響きに、水面に落ちた”花筏”のような雅さはないが、私にとっては、やはり、”花漠”。
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あと1点は、これ。2〜3日前の別の公園。桜木のひと枝が、松の木の中に枝を延ばしていた。
周りは、松の緑と、花の散った桜蘂の赤ばかり。その緑と赤に囲まれて、白い10輪ばかりの桜花が残っている。今年の桜の中で、印象に残る光景であった。
3月11日、大震災が起こった。原発事故も発生した。
その後10日ばかり、朝から夜まで一日中テレビを見ていた。起こっていること、私の思いもキーに打った。しかし、10日ばかりして、私は虚しくなった。テレビを始め、メディアの報道に。
未會有の大災害である。原発事故も収まらない。風評被害まで加わった。東電や政府の対応に対する非難が始まった。もちろん、想定外を想定できなかった東電や、まずい対応を繰り返す政府の対応に、元凶はある。しかし、皆が皆、正義の味方になったような気でバッシングを始めた。私は、虚しい気分に陥った。
NHKを含め、テレビのキャスターばかりでなく、メディアのすべて、正義の味方になったようなことを言う。
多額の義捐金を送った人もいる。歌を歌っている人もいる。ボランティアで瓦礫の撤去に行っている人もいる。私はあなたとともにいる、ということを言い続けている人もいる。皆さん、立派である。
しかし、急に、再生可能なクリーンエネルギーで、なんてことを言っている人もいる。将来は問わず、今、日本の電力の3割を占める原発を止め、お前さんの覚悟はありやなしや、と問いたい。
東北や北関東の野菜や魚を買わない、という人もいる。あなたは、それほどまでして生きたいか、と問いたい。
だから、虚しくなった私は、日中のテレビは見なくなった。夜のニュースだけは見ているが。正義の味方には与したくない、という思いが強くなった。私は、どうこう言いたくない、言うべきではない、と思った。私がすべきことはただひとつ、毎月郵便局から僅かばかりの義捐金を送ることだけ。9月まではこれを続ける。
だから、あとは近場の桜を見歩いていたが、それも今日でオシマイ。
明日からは、どうするか。