受け容れる死。

死する若者たちの物語である。切なく哀しい物語である。
若くして死するから、切なく哀しいのではない。若くして死ぬことに疑問を抱かず、それを受け容れていることが、切なく哀しい。
カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』の映画化。監督は、マーク・ロマネク。

典型的なイギリスの田園地帯にある寄宿学校で、子供たちが厳格な教育を受けている。絵を描いたり、詩を創ったり、といった情操教育も。「あなたたちは、ある目的の為に生まれたのです」、と校長は言う。生徒たちは、「はい」、と応える。
キャシーは、トミーという男の子と仲良しだ。ルースという女の子とも友だちだ。物語は、この3人を軸に静かに廻っていく。
彼ら、18歳になると、農場のコテージに移される。そこには、他の寄宿学校からの生徒たちも来ている。車で町へ出ることもある。しかし、入った食堂では、皆同じものを頼んでしまう。町で、ルースによく似た人を見かけた、という話も聞こえてくる。
若い男女、恋愛沙汰も当然起きる。子供のころから仲良しだったキャシーとトミーも、お互いに惹かれていたが、トミーは、積極的なルースに取られてしまう。ラブストーリーとしては、キャシーの心情切ないが、実はこの物語、より切ないのは彼らが背負っている運命にある。


彼らの人生、決められている。彼らだけに課せられた、特別な運命を生きているのだ。彼らのほとんどは、30前後までしか生きることができない。そう決められた人生なんだ。
ドナー、提供者、という言葉が出てくる。コンプリション、終了、という言葉が出てくる。不気味だ。
1回の提供で終了する者もいるが、大体は、2〜3回の提供で終了する。多い人でも、4回の提供で終了する。すべての人が、30前後までに。
不思議なことに、彼らのすべて、それに疑問を持たない。その運命を受け容れている。このことが、切なく哀しい。
10年ばかり後、キャシーは介護人になっている。介護人になったからといって、決められた運命から逃れられるということはない。でも、介護人にはなることができる。
その後、離れ離れになったキャシーとルースとトミーの3人だが、キャシーは偶然ルースとトミーのことを知る。訪ねたルースは、提供の後終了する。トミーも2度の提供をしている。
キャシーとトミー、10年前には至らなかった恋に燃える。実は、本物の恋ならば、数年の猶予が与えられる、という噂があったのだ。昔の校長を探し当て、そのことを質っするが、空しかった。
トミーは、次の提供で終了し、キャシーにもその時がくる。

寄宿学校にいた生徒たち、皆、30前後までに死を迎える。なぜそれに抗らわない。逃亡することだってあるのじゃないか、と考えるが、そうはならない。彼らすべて、決められた人生を受け容れる。それが、切なく哀しい。
不気味であり、不思議な死の物語である。同じ死を描いても、昨日キーを打った『ヒアアフター』とは、まったく別種の物語、余韻が残る。
この物語、”クローン”という言葉は、まったく出てこない。それに引き換え、”提供者”や”終了”という言葉は、重く出てくる。
カズオ・イシグロ、この物語を近未来のこととして書いてはいない。時代は、50年ほど前に設定している。恐ろしい。だが、現実味はある。
3日前、16歳以下の脳死状態に陥った少年からの臓器移植が、初めて行われた。ドナーである少年から、心臓、肺、腎臓、その他、5人の人たちへ命が受け継がれた。
クローンは知らず、死から生への引き継ぎ、そういう時代に入っていることは確か。それを目的としたクローンの創出には、切なさと悲しさを覚えるが。