玄奘三蔵と平山郁夫。

今日までだが、東博での「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」展、過日観に行った。
”文化財保護法制定60周年記念”、となっている。それはいいが、上野公園の東博の前、フェンスで囲まれている。”文化の森 上野恩賜公園の再生整備が始まります”、という板がかかっている。じゃあ、ホームレスの人たちへの炊き出しは、どうなってるんだ。毎週やっていたはずだが。西郷さんの方へでも移ってるのだろうな。
で、東博へも科博の方から、ということになる。

科博から東博への突きあたり、こういう看板があった。

”仏教伝来の道”といい、”文化財保護”といい、平山郁夫とくるのは、当然の理か。
何しろ、仏教伝来の道、シルクロードへ旅すること130〜140度を数え、歴代政府の”文化財保護担当大臣”、みたいなことをやってきた人だから。総理は誰に変わろうと、常に一貫して。
展示は、2部に分かれている。
第1部は、「文化財の保護と継承 仏教伝来の道」。

平山郁夫に『永遠のシルクロード』(2000年、講談社刊)、という500ページ余の著がある。
広島での被爆体験から始まり、いわば平山郁夫の越し方を書いたものだが、その多くは、シルクロードをはじめとする旅のありさまを記したものだ。あちこちへの旅、なかなか面白い。が、中に、「文化財赤十字構想」という一節がある。
<私は、文化に関してはたとえ政治的な国際問題といっても、人類共通の世界遺産として支援することを提唱している。もし、一般論として国交が断絶したり緊張感が生まれる事態が起こった時、話し合いを続けられる人脈やチャンネルを持っていたほうが、紛争をを回避するのに、安全弁ともなると思っている>、と書いている。また、
<文化財赤十字の精神とは、・・・・・戦場で戦闘力を失った兵士を、敵味方の別なく、人道的、博愛的に援助する精神と同じである>、とも。
平成7年には、何と、スイス、ダボスのあの「ワールド・エコノミック・フォーラム」にも招かれ、基調講演も行っている。こういうような。
<日本はこれから、文化財赤十字の精神で国際貢献をしたい。これを、アメリカ国家の自由を守る精神、フランス国家の人権を守る精神と同じように、日本のポリシーにしたい。・・・・・>、という趣旨の講演をしたそうだ。
寡聞にして私は、日本国が国家として、文化財赤十字精神を、国家のポリシーにしたのかどうかは知らないが、平山郁夫が、さまざまな文化財保護活動をしたことは、事実である。
アンコール遺跡群の保護、敦煌莫高窟の保護、高句麗壁画の保護、その他多くの保護、保存、修復活動に。在外日本文化財の修復、保護活動もしている。10年前、タリバーンにより、バーミアンの大仏が爆破された時には、その暫く後の国際調査隊にも加わっていた。
絵描きの枠組みを超えた行動に、どうこうということを言う向きもあるが、平山郁夫、やはり、エライ人であった。
なお、上の写真は、「仏伝図 カーシャパ兄弟の仏礼拝」。
作られたのは、2〜3世紀。アフガニスタン、カピサ地方の出土品である。所蔵元は、流出文化財保護日本委員会保管、となっている。
この流出文化財保護日本委員会も、2001年、平山郁夫の肝いりで作られたものだ。アフガニスタンの文化財復興支援のため、アフガニスタンから流失した文化財を保護し、アフガニスタンの国情が安定した時に返還する、という事業を行う機関である。

「舎利容器」の側面だ。
中国、新疆ウイグル自治区クチャ スパシの出土。6〜7世紀のもの。東博の所蔵品なので、常設展でも時折り見かける。

「ナーガ上の仏陀坐像」。
カンボジア、アンコールトム東南部のテラスNo61。アンコール期、12世紀の作。

「壁画 持香炉菩薩跪像」。
中国、新疆ウイグル自治区ペゼクリフ窟。10世紀頃。
なお、上に掲げた作品写真、いずれも東博内の看板を写し、そこから取ったものである。今回のように、何枚もの構内の看板、それぞれ別の絵柄にしてくれるとありがたい。
菩薩といえば、大谷探検隊が持ち帰った「菩薩像頭部」が素晴らしかった。
やはり、中国、新疆ウイグル自治区のクムトラ石窟のもの。6〜7世紀の作。胡粉のようなもので白い顔に、目や口が朱や黒で描かれている。第一次大谷探検隊が、クムトラ千仏洞から将来したもの。とても美しい。今、山梨の平山郁夫シルクロード美術館の所蔵である。
大谷光瑞の探検隊が西域から持ち帰った、いわゆる大谷将来品、欧米の探検隊が持ち帰ったものに較べると、はるかに少ないが、いずれも美しい。今回は出ていなかったが、私は、東博で常設展示されている、トルファン出土の10センチばかりの仏頭が好きだ。
しかし、考えてみれば、大谷探検隊将来品というもの、欧米の探検隊ほど阿漕なことはしていないが、持ってきちゃったんだな。何とも言いにくいな。
今回の展覧会、第2部は、「文化財保護活動の結実 大唐西域壁画」。
平山郁夫が、20年の歳月をかけ、薬師寺の玄奘三蔵院のために描いた壁画だ。7場面、13の壁画、薬師寺を離れ、東京への出開帳である。

これは、その第一場面、「明けゆく長安大雁塔」。もうずいぶん前だが、私も大雁塔へ登ったことを思い出す。西安(昔の長安)の町並み、よく見渡せた。
それより、玄奘三蔵、西暦629年、長安(今の西安)を国禁を犯して発つ。天山北路を通り天竺へ。17年後の645年、多くの仏典を携え長安へ戻る。
以後約20年、大慈恩寺で、サンスクリットの経典を中国語に翻訳する。玄奘三蔵が訳した膨大な経典は、652年に建立された大雁塔に納められる。
平山郁夫、薬師寺への”絵身舎利”として、「大唐西域壁画」を描くことごとを書物としている。『シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅』(2001年、NHK出版刊)である。
その「はじめに」に、こう書いている。
<20世紀の最後の日、平成12年12月31日の深夜、私は奈良・薬師寺玄奘三蔵院大唐西域壁画殿の前庭に巨大な筆を持って立っていた。・・・・・「南無大遍覚玄奘三蔵大菩薩」住職の凛としたお声が響くと同時に、私は壁画に最後の筆を入れる。・・・・・壁画を御本尊とする伽藍は、いままで類例がない。これを「絵身舎利」と表現したのは、故高田好胤師であった。おそらく、師の造語であろう>、と。
薬師寺、昨年も訪れ、玄奘三蔵院へも伺っている。しかし今回、新しいことに気がついた。大下絵も合わせて展示されていたことである。
気になっていた最終画面、「ナーランダの月」のおぼろげな人物、大下絵にはない。
昨年、玄奘三蔵院の人は、私にこう言った。「あれは、平山先生が、高田好胤を描いたのです」、と。そんなことはない、あのボーと描かれている人物は、作者の平山郁夫その人に違いない、と私は思っていた。
平山郁夫は、『シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅』の中で、こう言っている。
<・・・・・あるいは玄奘の姿にでも見え、あるいは亡くなった高田管長にも、私自身の自画像にも見えるという、そういった気持で描いたのです。・・・・>、と。
そうであろう。平山郁夫は、玄奘三蔵と高田好胤と己自身の三者を、一体化、融合させたかったのだ。
その気持、よく解かる。当然だ。”絵身舎利”を描いたのであるから。