北泰紀行(15) メコンを渡りラオスへ。

メコン川、ゆーっくり流れている。とても長い行程なんだから。
チベット高原に発したひとしずくが、中国の青海省では扎曲(ザチュ)と呼び、雲南省に入ると瀾滄江と名前を変え、南シナ海までに、ミャンマーではメイ・カウン・ミェツ、ラオスではナム・コン、タイではメナム・コン、カンボジアではトンレ・メコン、ヴェトナムではソン・クーロン、と呼ばれているそうだ。
このこと、管洋志著『メコン 4525km』(2002年、実業之日本社刊)に教えられた。
アジアの地のあちこち、歩いている人は多いし、カメラで追っている人もいる。しかし、”人間写真を目指す”という管洋志、30年もの間、メコン流域の地を歩き、写真を撮っていたそうだ。写真と文章、半々というものだが、管の思いがこもったもの。その写真、メコンも、メコン流域どの国の人も、まろやかな感じを受ける。
メコン、同じアジアの川とはいっても、長江や黄河とも違うし、どこかギスギスしたガンガー(ガンジス河)とも違う。その流域各地の人たちの心根が違うんだ。穏やかなんだ。おそらく。

そのメコン、このような舟が走っている。私たちも同じようなボートに乗った。

そのボートの舳先。
まず下流へ走り、その後反転、上流へ走った。この写真では、左側がタイ、右側がラオスだ。
ドライバーというか船頭というか、このボートの運転手、やけにぶっ飛ばす。面白がっているように。お客へのサービスなんであるのだろうが、尻と背中が痛かった。

その後、ラオス側へ向かい、この桟橋にボートを着けた。小さな桟橋に。ラオスの国旗が立っている。

ラオスに上陸すると、細長いラオスの旗もあった。ずいぶん色褪せているが。
右下に見えている黄色や赤いものは、ボートに乗る時に着けていたライフジャケット。上陸すると脱いで、棹に懸けておく。

少し歩くと、こういうところが見えてくる。オッ、なかなかカラフルじゃないか。

その横の方に、こういう看板があった。
ラオスの国旗が描かれており、「ラオス人民民主共和国 ボーケーオ県トンプーン郡ドンサオヒル部族地」、と書かれている。ラオス北部の小さな県だ。
タイとラオス、メコン川を挟んで国境を接しているが、どうも、ボーケーオ県には、橋がないようだ。公には、両国の間、フェリーが走り、そこにイミグレーションがあるそうだが。しかし、いかに国が違うとはいえ、すぐ川向うの小さな村へ行くのに、入国審査なんてことは関係ない。必要ない。大らかなものだ。

その先にバラック建ての商店街がある。観光客向けの商店街である。
私たちの前には、あまり人は来ていなかった。

しかし、その店内、なかなかのものだ。
小さな子供のお守りをしながら店番をしていた、この若いお母さんの店には、いろんなものが並んでいた。後ろには、よく見慣れた酒やタバコも並んでいる。皆イミテーションだそうだが、品揃えは豊富だ。
布地やTシャツなどを売っている店もある。対岸のタイ側で、Tシャツを何枚も買ったS、「しまった」と言っていた。タイ側では150バーツのTシャツ、ここでは100バーツであったから。まあ、それは仕方がない。その程度の違いがあるのは。
ラオスという国、人口は、日本の1/20程度しかいないが、GDPは、何と1/1000程度。今どき珍しい社会主義国でもあり、まだまだこれからの国なんだから。

私たちの後から、お坊さんが5〜6人商店街に入ってきた。エラそうなお坊さんが、小坊主を連れて。このお坊さんたちも、タイからラオス見学に来たらしい。それとも、買い物にきたのかな。

短いバラックの商店街を抜けると、こういう光景があった。左に下がっているのは、ラオス国旗。

より近づくと、木の家があり、小さな赤い軽トラックが止まっている。
人もいる。その向うは、畑のようだ。

船着き場に戻ると、私たちの船頭が待っている。他のボートも着くようだ。

と、周りにいたラオスの子供たち、桟橋の方へ寄ってきた。慈悲深い人から1枚ずつ硬貨を与えられた彼ら、桟橋の上に並んだ。

タイ側へ戻るボートの上から、別のボートを撮った。私たちのボートも、同じようなものだったろう。
なお、私たちのボートのチャーター料、6人で乗り、待時間も入れ、1時間少しで400バーツ。船頭へのチップを100バーツはずみ、全部で500バーツだった。ひとり頭にすれば、300円にもならない。それで、ヴィザなし入国ができる。

タイ側、ゴールデン・トライアングルに戻った私たちが、船着き場の側の食堂で遅い昼食をとっている頃、あのお坊さんたちのグループも戻ってきた。
メコンは、さざ波立ってはいたが、ゆったりと流れていた。