気ままな生涯。

昔、J・J氏がいた。本名は、植草甚一。日本橋小網町生まれの江戸っ子だ。
私が、初めて読んだJ・J氏の本は、晶文社から出た『ぼくは散歩と雑学が好き』。40年ほど前のこと。
昨日の、秋吉敏子は、孤軍奮闘、しゃかりきになって走ってきた、いわば”女の一生”。彼女の『ジャズと生きる』は、ジャズに限らず、戦中戦後6〜70年の社会状況を知る上でも恰好の書。感動も覚える。しかし、J・J氏の書くものには、しゃかりきなんて言葉はないし、影もない。”イヤァー、イイナァー、カッコイイ”、という思いを、当時の若者に植えつけた。
”散歩”といっても、野原を歩くわけではない。街中を歩く。それも、たいていは古本屋街。時には、古道具屋やアクセサリー屋も覗く。”雑学”の定義は難しいが、たしか、ご本人が、どこかに書いていた。政治と経済以外、と。だから、仮に今、存命であったとしても、北朝鮮がどうこうとか、COP16がどうしたとか、といったことは、興味の範疇外。その他のことだ。
<ときどき机のまえで、そのときやっていることを忘れてボンヤリとし、3日間だけ神保町のそばのホテルに泊まりたいな、という気持ちになってくる>、とか、<あなたはどれぐらい本を買いますか。こんな愚問もよく受ける。ぼくは毎日12冊ぐらい買っていた。それが最近は15冊になっている。けれど本屋に行けない日がある。それでも1か月に5百冊にはなってしまう>。
これは、J・J氏・植草甚一の『古本とジャズ』(1997年、角川春樹事務所刊)の冒頭、「きょうも古本を買ったり歩いたり」の初めの部分である。
植草甚一、映画評論や、向うのミステリ紹介や、何やかややっていた。だから、ニューヨークにも詳しい。毎日のように古本屋に行き、安い向うの雑誌や本を買い、喫茶店でそれをパラパラとし、帰ってからは、夜遅くまでそれらを読む。行かなくとも、詳しくなるはずだ。
J・J氏・植草甚一が、初めてニューヨークに行ったのは、驚くことに、65歳の時である。行く前からのニューヨーク通、グリニッチ・ヴィレッジの近くに宿をとり、古本屋、アンティーク・ショップ、アクセサリー屋を巡っている。
そういえば、J・J氏、指環やブレスレット、飾り物も好きなんだ。服装もカッコよかった。サイケというか、ポップというか、白いスーツに真っ赤なシャツ、というような常人ではとても、というようなもの。それが、板についている。だから、カッコいい。オッシャレーなんだ。
この時には、1500冊ぐらいの古本を買っている。もちろん、私の好きな古本屋・ストランドにも行っている。そう言えば、1月のブログ、「日本遺産の補遺(古本屋)」の中のどこかで、ストランドと植草甚一のことを書いた憶えがある。時間のおありの方は、そちらの方もどうぞ。
そのJ・J氏・植草甚一、50歳近くなって、急にジャズを聴きだした。
<おまえは49にもなってモダン・ジャズが急に好きになった。こいつはすこし頭がどうかしてるんじゃないかな。こう数年前にからかわれたもんですが、・・・・・>、と書いている。で、60年代末から70年代初めにかけ、ジャズ書を多く書く。
<好きなジャズ・ミュージシャンは、誰かいと質問されたとき、とっさに頭に浮かびあがるのはモンクとチャーリー・ミンガスとオーネット・コールマンであった、それからジョン・コルトレーンがいるなというふうになってキリがないけれど、・・・・・>、らしい。<モダン・ジャズは皮膚芸術>、とも言っている。
J・J氏、さまざまな文体を使っているが、ギスギス、ザラザラしてなくて、ホンワカとしている。まるで、何の悩みもないみたい。秋吉敏子の書には、感動を覚えるが、植草甚一の書には、安らぎを覚える。シャレてんだ。
こんな書き出し、どう思う。
<こんなジャズ・クラブがいいねとG・Mはいうんだ。G・Mとはジェリー・マリガンのイニシャルさ>、といったものは。J・J氏・植草甚一、ジェリー・マリガンと会ったのか、と思うじゃない。そうじゃないのは解かるんだけれど、引きこまれるじゃない。上手いんだ。
遅くなったがJ・J氏・植草甚一、1908年(明治41年)の生れ。サッチモよりは若いが、セロニアス・モンクやチャーリー・パーカーよりは10ばかり年長、マイルスやマル・ウォルドロン、ジョン・コルトレーンよりは20ばかりも年上。あのビリー・ホリデイよりも年長だ。1979年に死んだが、死ぬまで若かった。
60代になって、急にブレークした植草甚一のジャズ評論、実は、20代で世に出た平岡正明のジャズ評論と、その時代が重なる。平岡正明、『昭和ジャズ喫茶伝説』の中で、こう書いている。前後は端折るが、<平然と流されてゆく、植草甚一のニヒリズムのほうがいい>、と。
ニヒリズムか。平岡が見て。だが、私は、そうは思わない。で、「ほぼ日刊イトイ新聞」で、高平哲郎が語っているリアリズムを、最後に記す。
J・J氏・植草甚一が死んだ時、残された奥さんには、ほとんどお金がなかったそうだ。生命保険にも入ってなかったようで。
残された本の山、約4万冊、図書館にでも入ればよいが、図書館にも引き受け手がない。予算がない。で、本は、片岡義男の知り合いの渋谷の古本屋に引き取ってもらった、という。
レコードは、4000枚ぐらいあったが、分散するには忍びない。そこで、高平哲郎がタモリに持ちかけ、タモリが一括して引き取った、という。その他、J・J氏・植草甚一が集めた小物類すべて、イベント屋に頼み、売り払らい、その金を、残された奥さんに渡したそうだ。
気ままな生涯を生きたJ・J氏・植草甚一の奥さんも凄い。高平哲郎、こう語っている。
「亡くなった時、奥さんはさあ、”せいせいしたって”言ってたもん(笑)」、と。
まだある。J・J氏・植草甚一が死んだ後、ある雑誌が植草甚一の特集を組んだ、という。奥さんの話を中心にして。そのタイトルは、「バカは死んでも直らない」、もう、面白すぎて(笑)、と高平は語っている。
私の母もそうであったが、気ままな人生を送る男の女房、このくらいの女性でないと、務まらない。J・J氏・植草甚一のカミさん、立派な女性である。