孤軍。

秋吉敏子について書く。
1929年(昭和4年)12月12日、旧満洲で生れた秋吉敏子、明日、81歳となる。現役のトップミュージシャンとしては、最長老と言っていいだろう。海外で認められ、成功した最初のジャズプレイヤーでもある。しかし、秋吉敏子のこれまでの道、戦いの連続である。まさに、孤軍。
『ジャズと生きる』(岩波新書、1996年刊)は、秋吉敏子の自伝である。17年前に自伝執筆を依頼され、承知したのだが、延び延びになっていたそうだ。この年(1996年)は、音楽生活50周年、渡米40周年にあたるため、何とかこの機会に、と6カ月かけて書いた、と「あとがき」にある。
戦いの連続である。女としての戦い。日本人としての戦い。そして、驚くべきことに、金との戦い。
デビューしたての頃ならば、解かる。渡米したての頃ならば、これも解かる。しかし、グラミー賞候補に上がるレコーディングを数々出し、「ダウンビート」誌の読者人気投票ばかりでなく、批評家投票でも、アレンジャー(編曲)、コンポーザー(作曲)、ビッグバンドの3部門で、同時に1位になる80年代でも、この3つの戦いは、続いている。
日本の敗戦で、満洲から大分へ引き揚げてきた秋吉敏子、16歳で別府のダンスホールのピアノ弾きとなる。医学校へ入れたかった父親は、「子供がダンスホールとは、断じて許さん」、とカンカンだったが、母親が、「ピアノが好きな敏子だから、せめて来年学校にあがるまででも」、と言って取りなしてくれた、と書いている。1946年、そういう時代だったんだ。
翌年、17歳で福岡のジャズバンドに入り、ジャズピアノを覚えていく。翌年(1948年)、18歳で上京、進駐軍の「ショーバンド」を振り出しに、腕を磨いていく。翌年には、アップライトのピアノを買っている。間借りの四畳半の部屋にピアノが届いた時のことを、こう書いている。<小さなベッドと、洋服だんすを置いてある部屋にピアノを壁に付けて洋服だんすと並べて置くと、歩いたり座ったりする場所がないほどだったが、・・・・・>、と。
1952年、自らのバンド、「コージー・カルテット」(第1次)を結成。第2次の「コージー・カルテット」には、渡辺貞夫を加えている。秋吉敏子は、渡辺貞夫のことを、とても買っている。いろいろ世話も焼いている。
ナベサダ、秋吉より3つ下。だがそれ以上のものがある。
渡辺貞夫著、岩浪洋三編『ぼく自身のためのジャズ』(荒地出版社、1969年刊)の中で、ナベサダ、こう語っている。
<彼女のグループにいたということで、彼女の根性というものをよく見たし、音楽に対する姿勢というものも学んだ。とにかく、音楽に対してきびしい人で、ぜんぜんイージー・ゴーイングなところがなかった>、とか、<秋吉さんはきびしかったが、いい演奏ができた時は、率直にほめてくれる人でもあった>、と。
後年、ナベサダが、バークリーへ入る時にも、秋吉は、さまざまな手助けをしている。ナベサダ、こう話している。<ニューヨークの空港には秋吉敏子が出迎えにきてくれたのでほっとした。そしてニュージャージーの秋吉さんのうちへ直行したのだった>、と。
3つしか違わないが、ナベサダにとっての秋吉は、きびしいお姉さんであり、甘えられる姉貴でもあったのだ。
横道に逸れると、終わらなくなる。進める。
秋吉敏子、だんだんアメリカに行きたくなる。で、1956年、26歳の時、バークリー音楽院へ入学するため渡米する。羽田空港で、多くのジャズ仲間に送られる秋吉の写真がある。あの頃は、アメリカへ行くなどは、一大壮挙であった。
この5〜6年後、1961〜2年の頃、私もアメリカへ行く絵描きを羽田に送りに行った。アメリカへ行く男の親戚縁者、友だち連中、大勢で見送った。その男、ずぼんのベルトにキャンバス張りや何やかや、いろんなものをぶら下げていた。機内預けの重量オーバーを避けるため、重いものをベルトに挟んでいたんだ。まだ、金属探知機なんてものがない時代。50年前、そのような時代だった。
バークリー音楽院を出た後の秋吉敏子、1959年、チャーリー・マリアーノと結婚。1963年、一人娘、マンデイ満ちるを出産するが、1965年、離婚。1969年、10歳年下の、ルー・タバキンと再婚する。共にサックス奏者であるのが、面白い。村上春樹が言う通り、サックス奏者はもてるんだ。
そんなことより、秋吉敏子の、女として、日本人として、そして、金との戦いに戻る。
ヴォーカリストはそうでもないが、ジャズプレイヤーの世界、男の世界である。ルー・タバキンとのビッグバンドの頃でも、レコードのPR記事に、「作・編曲は皆、ルー・タバキンの手による」、と書かれたり、タバキンに、「本当に彼女だけの手でなされたのか?」、なんて質問が飛んでいた、という。秋吉敏子の作った作品に。
日本人としての戦いは、より凄い。すさまじい。人種差別なんだ。アメリカという国、人種差別の問題は、抜き難い。
秋吉敏子の書に、とても興味深い記述がある。
<アメリカへ来て数年後、私は、なぜ1,2の例外を除いて日系アメリカ人のジャズ・プレイヤーがいないのだろう?と不思議に思った。しかし、ある本で昔の日本人移民の歴史を読んで、その理由に思い当たった。子供たちに高い教育を受けさせて、アメリカ社会の主流に地位を得ようと努力した日本人は、黒人世界と密接な関係にあるジャズとは、とりわけ関わりたくなかったのではないか?>、と記している。
日系アメリカ人の哀しみ、ということも感じるが、秋吉敏子の指摘、炯眼である。
今では、そうではないようだが、金との戦いは、初めの方に記した通り、80年代まで続いたようだ。そのずっと前から、私たちが世界の秋吉、と思っていた頃まで。
10日ほど前、NHKBSで、秋吉敏子の番組があった。私が気づいたのは、終わる10分前ぐらいだった。
秋吉敏子、彼女の組曲「ヒロシマ そして終焉から」の第3楽章から取った、「HOPE」を弾いていた。
そして、最後に、こう語っていた。
「世界には、さまざまな宗教があるけれども、お互いに認め合うことが必要だと思う」、と。的を射ている。そして、深い。
なお、今日のタイトルに打った「孤軍」、お気づきの方もおられようが、「ロング・イエロー・ロード」と共に、彼女の代表曲のタイトルである。日本が負けた後、30年近く、フィリピンのジャングルで孤軍として生きていた、小野田小尉に捧げた曲だ。
<テレビの映像に映った、軍服で戦闘帽を被り、米軍に軍刀を渡す彼の姿は私の心を激しく揺さぶった>、と書いている。そのあと、こう記している。
<また、私自身もアメリカにおいて孤軍だ、とも思った>、と。