レフト・アローン(続き)。

小説の胆に「レフト・アローン」のテーマを据えた、栗本薫の『キャバレー』、主人公の名は、矢代俊一。
家を飛び出し、大学もドロップアウト、場末のキャバレーでアルトサックスを吹いている。当人は、勉強のつもりだが、”ジャズがおれを選んだ”、というナマな理由で。一応、クインテット。ドラムは、35〜6の博打狂、ピアノは、50なりかけの韓国人、ベースは、女房と二人の子持ちの40男。そのプレイは、俊一が求めるものには、ほど遠い、しかし、皆いいヤツだ。場末のキャバレーだ、リクエストがあれば、軍歌から歌謡曲まで、何でもやる。
そのような中、いつもいつも「レフト・アローン」をリクエストしてくる男がいる。その界隈を縄張りとしている、ヤクザの代貸しだ。名を、滝川という。
ある日、俊一は、滝川の席に呼ばれる。いつも黒い背広を羽織り、サングラスをかけ、めったに声を荒立てることさえしないのに、この界隈では死神のように恐れられている男に。この男、人を殺した数、一桁じゃきかない、という男。その席で、こういう会話が交わされる。
<「すみませんね。あの、私がいつも吹いてもらう曲だが、「レフト・アローン」とかいうことだけはきいていたんだが・・・・・誰の曲なんです?」 「マル・ウォルドロンという、黒人のピアニストが作った曲です。この人はビリー・ホリデイの伴奏をしていてね、ビリー・ホリデイって、知ってるでしょう」 「いや、毛唐のことはどうも」 「黒人の、女の歌手なんです。もうずいぶん前に死んだんですが、ジャズといえば・・・・・」>、という会話が。
俊一、ビリー・ホリデイがどういう女であったか、ビリーのピアニストであったマル・ウォルドロンが、どういう気持ちで「レフト・アローン・・・・・ひとりぼっちで行ってしまった、という曲を作ったのか、アルトサックスを吹いたのは、ジャッキー・マクリーンで、・・・・・、と滝川に話す。
<滝川はじっときいていたが、少したって、・・・・・「そんないわくのある曲だったんですか。ひとりぼっちで行ってしまった・・・・なるほどねえ。悲しい曲なんですね」、という。
長々と引いたが、このイントロ、前提がなければ、この「レフト・アローン」をテーマとした物語は、成り立たない。
このイントロがあってこそ、若いジャズマン・俊一と、40代のヤクザの代貸し・滝川との友情物語は、進行しない。生意気盛りの若者と、筋金入りのヤクザ者とが、心と心を通わせる物語は。”レフト・アローン”、”ひとりぼっちで行ってしまった”、”取り残されて”、というお話は。
途中、女がらみの話、ヤクザの縄張り争い、さまざまあるが、イントロが長くなったので、すべて省く。エンディングに入る。
俊一、ヤクザの縄張り争いに巻き込まれる。まさに、”仁義なき戦い”の渦中に。サックス吹きの命、指を何度も落されそうになる。その度ごとに、滝川に助けられる。
最後に、相手のヤクザの事務所に連れ込まれた俊一を助けに来た時の滝川、腹にはダイナマイトを巻き、手には抜身の日本刀。ピストルを構えるヤツも含め、10人がとこ、叩っ切った。菅原文太だ。俊一を救い出し、車で走り去る。
埠頭に車を停めた滝川、俊一にこう言う。
<家に帰って、親御さんを安心さしてあげて下さい。さしでがましいと思うでしょうが、これ以上ここにいたら、私もあんたをどこまで守ってあげられるか、自信がない。・・・・・家に帰ってください>、と。
で、滝川は、<彼の世界、馴染深い人々と裏切りと暗黒のなかへと、帰っていったのだ>。
俊一にとって、”レフト・アローン”。
この栗本薫の小説、私は観ていないが、角川で映画化されている。角川春樹がいた頃だろう。忘れていたが、刊行も角川書店、昭和58年だ。
「レフト・アローン」、ジャッキー・マクリーンのアルトサックスで吹きこんでいるのは1960年だが、マル・ウォルドロンが作曲したのは、1959年らしい。ビリー・ホリデイの残した詩に曲をつけた。「I’m left alone」、というビリーの詩に。
     人は皆、私を傷つけ、去っていく
     I’m left alone, all alone (私は取り残されて、ひとりぼっち)
     街中の何やかや、ただ虚しくて
     I’m left alone, all alone
     心が通いあえる、その時が来るまで
     I’m left alone, all alone
この寂寥感、日本人が、グゥーとくる感覚だ。さらに、追いうちをかけるような、マル・ウォルドロンのあのメロディー、演歌の世界に近い。多少は理性があるであろう、物書き連中を含め、日本人の多くは、この曲にイカレる。参る。
ところが、こんなトンデモナイことを言っているヤツがいる。前後左右、詳しいことは省くが、要所のみ。
<・・・・・マル・ウォルドロンはからかわれた。・・・・・マルは、日本でだけ人気のあるピアニストだと言われる一方で、日本だけでからかわれるモダンジャズ・ピアニストだ>、というヤツがいる。
誰だ、そんなトンデモナイことをいうヤツは、ブッタ切ってやる、と思われる方も多いことだろう。実は、ソヤツは、平岡正明なんだ。『昭和ジャズ喫茶伝説』の中で書いている。
困ったもんだな平岡にも、と思うが、そこは平岡正明、死んでも(転んでも、だったかな)ただでは起きない。こんな笑い話をつけているのだ。
<東京の大学に通っている学生が、夏休みに郷里の気仙沼で待つ母親に、都はるみのレコードを買って帰った。ありがとよ、年とるとレコードを聴くのが楽しみだで、と老いたる母はターンテーブルをまわし、ターンテーブルにのっていた盤をどけて、都はるみをのせた。息子がどけられた盤を見ると、マル・ウォルドロンだった>、という話だ。
オイ平岡、ホントかよ、と思うが、本当の話だと思う。それほどに、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」、老若男女を問わず、日本人の琴線を打つ、と言えよう。
平岡がらみで記せば、<マル・ウォルドロン伴奏のビリー・ホリデイを聴いたのが・・・・・>、どうこうとか、<マル・ウォルドロンとジャッキー・マクリーンの「レフト・アローン」が目のさめるような音で鳴りだした。マクリーンがメロディーを吹く。マルがソロをとる。マクリーンがもう一度ソロをとる。二度目のマクリーンが、・・・・・マクリーンがビリーのかわりに歌っているのだと錯覚して、・・・・・>、ということも出てくる。
何のことはない。どうのこうのと言っても、平岡正明も日本人、「レフト・アローン」には、イカレてたんだ。ンンンーン、という出だしに。
少し長くなったが、「レフト・アローン」の一巻、これにて読み切りとする。