ロック(続きの続き)。

深沢七郎が、初めてギターを買ってもらったのは、中学の1年か2年の時だった、という。
中学を出た後、あちこち奉公に出たが長続きせず、ブラブラしたり、山梨の実家に戻ったり、また、東京に出たり、という時代にも、折々にギターを習っている。クラシックギターを。
1939年、25歳の時の初リサイタルから、1952年まで、18回のクラシックギターのリサイタルを行っている。自筆年譜による、18回目のリサイタルの演奏曲名には、メンデルスゾーンの「船唄」、「無言歌」、アルベニスの「グラナダ」、「セビーリャ」などが並んでいる。<この演奏会で、私が日本で最初にナイロン絃を使用した>、とも書いている。
その頃は、旅廻りのバンドに入っていた、という時代であるから、ジャズもマンボもやっていたのであろう。クラシックギターをやっていたヤツは、どのようなものでも弾けるもの。ロックでもロカビリーでも。
全盛期の江利チエミと、”ジャズとロカビリーの間”、ということについて語っているものがある。『おお、マイ・フィアンセ』。1959年、深沢七郎が『東京のプリンスたち』を書き、江利チエミが高倉健と結婚した頃のもの。これ、傑作。
江利 あたし、ジャズもロカビリーもおんなじものだと思っていました。リズムのちがいがあるってことを知らないで恥かいちゃった。あたし、ジェスチャーたっぷりに唄うのが、ロカビリーだと思っていた・・・・・。
深沢 ボクはロカビリーっていうことはロックンロールとエルビス・プレスリーが一緒になった新しい言葉だと思うんですけど。それで、プレスリーのようなリズムがロカビリーだとおもうんですけど、プレスリーのものがそうだと思っているんですけど、・・・・・。
江利 あたしはあまりロカビリーには興味がないんです。
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深沢 ほんとのロカビリーは、・・・・・それがリズムだから、美しい動きで、プレスリーなんか、ボリショイバレーなんかに劣らない美しい動きだのに。
深沢七郎、プレスリーなら何でもいいか、となると、もちろん、そうじゃない。
深沢七郎対談集『生き難い世に生きる』(昭和48年、実業之日本社刊)の中で、平岡正明とこういう話をしている。
この書は、羽仁五郎や岡本太郎、金子光晴といったジイさん連中か、逆に、当時売出し中の、横尾忠則やつげ義晴、井上ひさしといった若い連中か、といった人選の面白い対談集だが、その中に、『ジャズより他に神はなし』を出した1〜2年後の平岡正明も入っている。タイトルは、「沖縄は独立した方がいい」、というもの。沖縄の日本への復帰直後のもの。
<沖縄の人は何で性こりもなく日本へなんか帰ってきたのかな。沖縄人よ、日本へ帰る前にわれにかえれというんだよ。沖縄の歴史というものは、昔から中国のもんですよ>、とか、<この百年ぐらいで日本語になったんですよ。長い歴史は沖縄は中国のもんで、日本からすごく被害をこうむっているんですよね。それで日本へ返ってきたって、そんなにいいことねェんじゃないかな、と思うんですよ>、なんてことを語っている。
この書、そう売れているとも思えないから、まあいいが、今、尖閣問題で、カアッーと頭に血が上っている日本人ばかりでなく、中国人にも、あまりお薦めできる書ではない。
それはそれで面白いのだが、今はプレスリーのことだ。深沢七郎と平岡正明、その後、プレスリーを語っている。深沢が、”プレスリーは、現代のキリストだ”、と言ったことについて。
深沢七郎と平岡正明の両者、プレスリーは、初期のものに限る、と言っている。「ハウンド・ドッグ」の頃のプレスリーに。
これは鋭い。私も、そう思う。
「ハウンド・ドッグ」ばかりじゃなく、「ハート・ブレイク・ホテル」、「冷たくしないで」、「監獄ロック」。1956年、57年の、世に登場したばかりのエルヴィス・プレスリーこそ、ベツレヘムの馬小屋で生れ落ちた、イエス・キリストであった。
まだもみあげも細く、ギターを拙く弾く、か細い男・エルヴィスこそ、キリストであった。翌年、陸軍へ入りベルリンへ駐在、2年後に除隊してからのエルヴィスは、その後どんどん太り、類い稀なるエンターテイナーとはなったが、ロックンローラーとしての魅力は失せた。
酔っぱらってきた。だんだん何を打っているのだか、解からなくなってきた。ロックのことなのか、エルヴィスのことなのか、深沢七郎のことなのか、尖閣のことなのか。このへんで措いておこう。