ロック。

昭和31年(1956年)の、第一回目の中央公論新人賞の選者は3人。豪勢な顔ぶれであった。
後に、武田泰淳は、こう書いている。
<「中央公論」の新人賞の第一回、(その審査員は伊藤整、三島由紀夫の両氏と私だった)、・・・・・審査員の集まりは大がい憂鬱なものであるはずなのに、三名ともニコニコの笑顔で活気にみちていた。つまり、「これなら大丈夫、まちがいなし」の応募作品がめいめい一つ見つかっていて、それが全く一致していたからだ>、と。
驚くべきというか、不思議なというか、ともかく、異能の作家が、誕生した。深沢七郎である。芸名、桃原青二、それ以前、旅廻りのバンド時代のの芸名は、ジミー・川上、ギタリストである。
1914年生まれの深沢七郎、この時、42歳。石原慎太郎が、23歳で、芥川賞を受賞したのと同じ年。遅咲きである。受賞作は、『楢山節考』。姥捨て伝承に題材を取った、哀しい話である。
<山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村ーー向う村のはずれにおりんの家はあった>、と始まる。その今年69歳のおりんと、息子、辰平の物語。村では、70になると、楢山まいりに行かなければならない。おりんは、その時を待っている。
あと4日で正月になるという日、おりんは辰平に、明日楢山まいりに行くことを告げる。その夜、かって親を楢山まいりに連れて行った人たちだけを呼んで、振る舞い酒をし、<その次の夜、おりんはにぶりがちの辰平を責め立てるように励まして楢山まいりの途についたのである>。
辰平は、おりんを背板に乗せ、山に行く。
<進んで行くと死骸のない岩かげがあった。そこへ来るとおりんは辰平の肩をたたいて足をバタバタさせたのである。背板から降ろせと催促をしているのだ。辰平は背板を降ろした。おりんは背板から降りて腰にあてていた筵を岩かげに敷いた。・・・・・おりんの手は辰平の手を堅く握りしめた。それから辰平の背をどーんと押した>。
辰平が、楢山の中程まで降りてきた時、目の前に白いものが映る。雪が降ってきた。決して戻ってはいけない山の掟を忘れ、辰平はおりんのもとへ今来た道を駈け上る。
<「おっかあ、雪が降って運がいいなあ」・・・・・おりんは頭を上下に動かして頷きながら、辰平の声のする方に手を出して帰れ帰れと振った。辰平は、「おっかあ、ふんとに雪が降ったなァ」と叫び終ると脱兎のように駈けて山を降った>。
ここらで措いておこう。この深沢七郎の『楢山節考』については、多くの人が、評や感想を書いている。中には、文筆家にあるまじく、正直なことを書いている人もいる。「私は、ここで、涙が止まらなくなった」、というようなことを。
久しぶりで、この本を読んだ私も、先ほどから、ティッシュの山を築いている。