平岡・尖閣・仙谷。

”平岡・尖閣・仙谷”、と言ったって、平岡正明が、尖閣へ乗り込んだり、国会へ突入したり、という話ではない。
何より、平岡正明、1年前に、死んだ。乗り込みたくても、突入したくても、今や、それは、叶わぬことだ。
昨日の続きのことだ。昨日は、マイク・モラスキーが、その新著を平岡正明に捧げていること、ジャズ的だ、というところで、眠くなり、終わった。ふたりの関係、不思議であるより、面白い、というところで。
”根源的問題を、冷静に、いろいろな角度から・・・・・”、と言っている、冷静なマイク・モラスキーと、喧嘩者(喧嘩もん、とお読みなさって。今日だけは)の平岡正明の取り合わせ、面白いじゃないか。今、一橋の教授のM・モラスキーと、”ジャズのエネルギーを、革命への武器として”、という平岡の取り合わせ。
私は、平岡正明の最初のジャズ論『ジャズ宣言』は、持っていないが、二冊目のジャズ論『ジャズより他に神はなし』は、ある。昭和46年、三一書房から出たもの。帯に、”平岡正明の喧嘩旅”と刷りこまれており、「あとがき」には、”比較的あたりのごついものをセレクトし、・・・・・”と記している。
何が、”比較的”だ。どこが、”比較的”だ。ゴツゴツ、ガツガツ、ガリガリ。68年から71年にかけ、「ジャズ批評」、「現代詩手帳」、「ニューミュージック・マガジン」などに書いたものを纏めてある。要するに、各誌上での、論争、喧嘩状。なんで、こんなものがあるのか、解からない。碌に読んだとも、思えないし。
「ジャズにとって日本60年代思想とはなにか」。私は、60年ブンドも、70年ブンドも、よく知らない。60年と70年の間、他人の倍、在籍したが、校内に滞留したのは、他人の半分。ただ、60年代、世が熱かったことは、解かる。
革命と闘争を語る喧嘩文、ややこしいが、中には、解かり易いところもある。
<第一に、ジャズだけが第三世界の突出に呼応する「芸術」表現であった。世界の60年代史を語る上での最大の特徴は、第三世界の登場である>。
<第二に、ジャズとはジャズが変化していくことを一つの本質としている「不安定」な表現であって、ために転形期によく照応できることである>。
<第四に、60年代において、ジャズが他のいかなる芸術の分野にもまして血を流している。・・・・・だから凄いのだ>。
諸芸術の分野で、1960年代、ジャズが世界史的な規模で先行していく、ということについて述べた個所。第三は、省いた。こういう解かり易いことも、書いている。面白い。40年前の、30になるやならずの男の書くものに、いつクタバッテも可笑しくない、皺くちゃジジイが面白がって、何とする。逆じゃないか。ハハハ。
どこで、引っかかった。そうだ、M・モラスキーと平岡正明の、取り合わせのことだった。
流れ者、は同じだ。だが、大学教授と喧嘩者(”もん”です。”もん”)、検証派と直感派、酒飲み(M・モラスキー、居酒屋大好き)と酒嫌い(平岡、同書で、バー嫌い、酒嫌いの理由を書いてる。また、山下洋輔三人組に、小便に立った隙に、グレープ・ジュースにジンを垂らされ、翌朝目が覚めなかった、とも書いている)。
なにより、マイク・モラスキー、アメリカ人だ。しかも、白人。平岡正明が連帯する、黒人じゃない。
黒人ばかりのマイルスのクインテットに、ビル・エヴァンスが入ってきた時のようなもの。黒、白、の問題じゃない。いや、黄色と白か。背に背負ってる人種の問題じゃない。お互い、響くかどうか、の問題だったんだろう。
マイルスと言えば、半月ほど前、従妹のJからメールがきた。「昨日のブログに、マイルス・デイヴィスのことが書かれていたので・・・・・」、という書き出しだ。彼女の学生時代は、70年前後。全共闘世代だ。いささか暴れていたようだ。
1回生の12月、立命の中川会館が封鎖され、広小路キャンパス近くの荒神口の、「しゃんくれーる」というジャズ喫茶が拠点になっていた、そうだ。「よくかかっていたのは、ウェス・モンゴメリーの「A DAY IN THE LIFE」(かったるいアルバム)でしたが、マイルスもよくかかっていた」、とあり、その「しゃんく」のママが、どうこうで、平岡正明の『日本ジャズ者伝説』には、マイルス・デイヴィスが「しゃんく」のママに恋して、・・・・・と書かれている、と続いている。
私は、東京のジャズ喫茶を取り上げた、『昭和ジャズ喫茶伝説』は、評判にもなり、買ったが、その翌年に出た、その続編『日本ジャズ者伝説』(平凡社、、2006年刊)は、買っていない。くどいが、書名の”ジャズ者”は、”ジャズもん”。早速、読んだ。花のお江戸を離れた、股旅もの。
横浜野毛、中華街、元町、馬車道、伊勢佐木町、から始まり、関八州ジャズスポット修業篇、東北股旅篇、西国道場荒し篇、鎮西・沖縄突撃篇、ニューオルリンズ租界ジャズスポット、と寅さん同様、流している。京都の「しあんくれーる」、たしかに、出てくる。
だがしかし、従妹のJは、「しゃんくれーる」と書いているのに、平岡正明は、「しあんくれーる」と書いている。どちらかが、間違っている。
なんだ、そんなこと、大したことない。どちらかの思い違いだ。古いことだもん。通常は、そうだ。しかし、この場合は、そうは、いかない。何故なら、そこに書かれている平岡の文、シャレたものだから。
元々は、平岡、『昭和ジャズ喫茶伝説』の中で、<フランス語を店名に使ったジャズ喫茶は、日暮里「シャルマン」と、カミュ『異邦人』の主人公の名をかりたのだろう「ムルソー」の二軒>、と書いている。
そのことにつき、『日本ジャズ者伝説』では、<(その)行文に、京都「しあんくれーる」をけずったのは、美人ママに迷ったマイルス・デイビスが、”どうしたらいいのさ思案橋”、と店の前で途方にくれたところから、「思案暮れる」という日本語と判断したからだったが、・・・・・、日本語じゃなかったのかねえ>、と記しているのだ。
シャレてんじゃないかよ、平岡正明。喧嘩もんも、洒落もんだ。
従妹のJに、「久しぶりのメール、ありがとさんよ」、と返事したら、その返事が、また来た。
「私、救援対策会議で隣りになった、当時司法修習生の仙谷さんに、お茶でもって誘われたことあるのよ。あの時、お茶に行ってたら、今ごろ官房長官夫人だったかも」、と。救援対策会議って、どういうものかは知らないが、デモでパクられた仲間を、いかに奪還するか、というような会議だろうな、おそらく。今では、何人もの孫の写真を持ち歩いているバアさまが、だ。
仙谷の女房になんか、ならなかったほうがいい。孫自慢の、普通のバアさまのほうが、ずっといい。正解だ。
それにしても、仙谷由人、尖閣問題では、その初期段階で、判断ミスはするは、今日も、TPP加盟を決断できない菅直人を、上手く指導できないは、とさんざん叩かれているが、若い頃には、いいこともしてるんだ。
孫自慢の、普通のバアさまに、”お茶に誘われ、もし、あの時”、なんて、甘いか、酸っぱいかは知らないが、そういう思いを残しているのだから。何十年後の今に至るまで。
つい、横道に逸れてしまった。忘れるところであった。M・モラスキー、HPを開いている。名で検索すれば、すぐ出てくる。
ライヴの予定もあるはずだ。そうだ。M・モラスキー、学者ではあるが、ジャズピアニストでもあるんだ。
この夏からは、ブログも開いている。これも、お得意の分野、「居酒屋探訪記」というブログを。