やわらちゃんの引退。

谷亮子が、現役引退を表明した。
北京五輪で敗れた後、試合には出ていなかった。国会議員となってからは、小沢一郎の客寄せ、露払いのような感もあった。若手の台頭もあった。先月には、全柔連からは、強化選手の指定ランクを下げられた。いずれにしろ、引退は時間の問題であった。
しかし、強い選手であった。15歳、中学3年で福岡国際で優勝、世界の舞台に登場した。以来ほぼ20年、文字通り、48キロ級の第一人者であり続けた。日本の柔道選手で、絶対的な世界王者は、男では山下泰裕、女では谷(田村)亮子。これに異を挟む人は、いないだろう。
ともかく、強かった。福岡国際では、11連覇を含む12度優勝。全日本選手権では、11連覇を含む14度の優勝。世界選手権では、6連覇を含む7度の優勝。オリンピックには、5回出場し、金2、銀2、銅1。強かった。
初のオリンピックである1992年のバルセロナでは、銀であったが、その後、まったく負けなかった。連戦連勝。身長146センチと、48キロ級の中でも小柄。髪を輪ゴムでとめたやわらちゃんは、国民のアイドルであり、国民を元気づけた。
次のオリンピック、1996年のアトランタ大会では、ガチガチの本命、やわらちゃんが金メダルを取ることを疑う国民なんて、誰ひとりいなかった。やわらちゃんは、20歳になっていた。バルセロナ以来、一度も負けていない。勝って当たり前、誰もがそう思っていた。
そのやわらちゃんが、決勝で北朝鮮の無名選手に敗れた。ケー・スンヒという名の、16歳の高校生に。日本中が驚いた。しかし、このケー・スンヒの名は、日本人の頭に刷りこまれた。やわらちゃんを敗った選手として。15歳で、世界にデビューしたやわらちゃん同様、16歳で世界を驚かせたケー・スンヒも、その後、階級を少しずつ上げ、凄い柔道選手となっていく。
それはともかく、私は、谷(田村)亮子の試合を思う時、まず頭に浮かぶのは、このアトランタでの決勝で、ケー・スンヒに敗れた時の姿である。畳に座った状態で暫く動けなかった。茫然としていた。何しろそれまで、国内ばかりでなく、世界の強豪を相手に、84連勝をしていたのだから。彼女自身が、どうして自分が負けたのか、納得できなかったに違いない。
私は、谷(田村)亮子の大舞台は、ほとんど見ているはずである。しかし、彼女を思う時、まず浮かぶのは、この試合。勝った試合のことは、あまり頭にない。それほど負けなかった、ということだ。それほど強かった、ということだと思う。
2000年のシドニー、2004年のアテネでも、当然のように金メダルを取った。ヨーロッパやキューバには、その時々、強敵もいたが彼女は勝ち続けた。
その折々、自らを奮い立たせる言葉を、口にしている。「最高で金、最低でも金」とか、結婚した後には、「田村でも金、谷でも金」とか、と。そして、5度目のオリンピックとなる北京大会、子供を得ていた彼女は、「ママでも金」、の言葉を口にする。
だが、これは成らなかった。銅に終った。やわらちゃん、この時、32歳になっていた。やわらちゃんというよりも、谷亮子という方が自然な年齢になっていた。不敗神話も崩れつつあった。オリンピックの代表選考を兼ねた全日本の大会で、若手に敗れた。しかし、全柔連は、優勝した若い選手をはずし、オリンピック代表には、経験豊富な谷亮子を選んだ。
確かこの時、谷亮子より一世代上で、日本の女子柔道を世界に認めさせた山口香が、こう言っていた。「これじゃ何の為の選考会か。優勝した選手がかわいそうだ」、と。山口香の言うこと、正しい。しかし、スポーツの世界、このようなことはよくあること。ほとんどの国民は納得した。「ママでも金」、やわらちゃんならやってくれるだろう、と。
だが、それは成らなかった。それでも、メダルは取ったが。しかし、よく考えてみれば、これも凄いことだ。5回もオリンピックに出場し、そのすべてでメダルを取っているなんて。日本人では、彼女以外いないのじゃないか。世界でも、こういう人、おそらく、数人ではなかろうか。
だがしかし、ここからが不思議だ。小沢一郎に誘われ、参院選に出、国会議員になる。次のロンドン五輪も目指す、と言っていた。その時には、「国会議員でも金」、という言葉を用意していたのだろうが、それは夢と消えた。
小沢一郎は、今日の谷亮子の、柔道からの引退会見にも同席していた。その小沢、今日、先般の検察審査会での起訴議決は無効、との行政訴訟を起こした。小沢、国と対決する。谷亮子、あくまで、その小沢についていく。
やわらちゃん、谷亮子の前半生、汗水をたらした栄光の道であった。しかし、これからの後半生は、泥水をかぶる苦闘の道になるかもしれない。
しかし、それでも、やわらちゃん、田村亮子、谷亮子は、不世出の柔道家であることには、変わりはない。