早熟のアルチザン。  

猛暑は続いている。それでも処暑も過ぎ、朝夕少しは和らいだかな、という感じを受ける。で、夕刻、千葉市美術館へ行く。
「田中一村 新たなる全貌」展観る。

奄美の画家として知られる田中一村だが、生れは栃木。幼少の頃東京へ移り、30歳で千葉へ。千葉市千葉寺町で、50歳までの20年間を過ごす。その後、69歳で死ぬまでの約20年間が、奄美大島での生活である。奄美大島へ移住した後の作品ばかりが知られているが、千葉にとっては、千葉ゆかりの画家なのである。
この展覧会、千葉市美術館開館15周年記念特別展として、3年の歳月をかけて調査、研究を重ね、開催されたという。学芸員の松尾知子がこう書いている。<開館前から、田中一村を取り上げないのかという声は、常に届いており、動きのない当館に対して批判もされていたものです>、と。
そこで、<新資料を含む約250点の出品作品による、過去最大規模の展観が実現することになりました>、と。たしかにそうである。
田中一村の展覧会、ここ20年ばかりの間に何度か開かれている。5〜6年ほど前、たしか大丸ミュージアムであったのを観た憶えががある。奄美時代の作品を中心としたものだった。奄美大島の田中一村記念美術館から持ってきたものが主だったような気がする。その半分ぐらいは、複製だったような憶えもあるが。
今回は、違う。千葉市美術館、気合いを入れた展示とした。
美術館の入口。柱に巻きつけられた、田中一村の代表作「不喰芋と蘇鉄」。

この美術館、千葉市の中央区役所の中にあるんだ。時折り、コンテンポラリーアートも含め、面白い企画展をやっている。
田中一村を、東洋のゴーギャンという向きもあるようだが、その色調、肯けないことはない。

これは、「アダンの海辺」。やはり、入口の柱に巻きつけられた写真。
この2点、一村が、これだけは冥途の土産、閻魔大王への、といって手放さなかったものだそうだ。今、個人蔵となっているが。
たしかに、会場内の現物を観ても、素晴らしい。田中一村の到達した極地であろう。
絵描きというもの、ごく一部の人を除き、ほとんどの人はそうだが、厳しい一生を送る。田中一村もそう。才能はある。しかし、食うや食わずの一生を送った。
今、多くの人が、ああ、と言って観ている奄美時代の作品も、大島紬の染色工として何年か働いては金を貯め、その後何年かは絵を描く、という繰り返しで描いたもの。今、このような展覧会が開かれているなんて、生前の田中一村は思いもしなかったろう。そういうものだ、絵描きとは。
田中一村、小さい頃から絵ばかりでなく、書や篆刻の教えも受けたようだ。8歳や9歳の頃の、色紙や短冊に描いた作品がある。その絵ばかりでなく、添えられた書も見事なものだ。私は、北斎を思いだした。
葛飾北斎は、日本を代表する画家である。80歳の時、”画狂老人”と称した。一村と北斎、同列には論じられないが、敢えて言えば、8つや9つの一村、”画狂童”と言ってもいい。絵といい、書といい、こまっしゃくれている。8つや9つで上手すぎる。ひねくれている、と言ってもいい。10代の作品になれば、なおのこと。
これじゃ、その後、青龍社展に入選しながらも、川端龍子とぶつかってすぐやめたり、日展や院展に落選し続け、画壇との決別をはかるのも当然である。
ところで、絵を語る場合、アーチストとアルチザン、ということがよく言われる。北斎は、偉大なアーチストであり、凄いアルチザンでもあった。一村は、凄いアルチザンだと思う。10歳に満たない頃から。8歳か9歳の頃の作品が、58歳や59歳の時の作品と言ってもおかしくない。
魅力的なアーチストではあるが、それよりも、早熟のアルチザンなんだ。だから、苦労した。
気合いの入った今回の展覧会を観て、改めてそう思った。