責任と自裁。

日本敗戦の翌日、昭和20年の今日、8月16日、特攻作戦を発案、指揮したとされる海軍中将・大西瀧治郎が、割腹自決を遂げる。
その遺書にこう記している。
「特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す・・・・・
 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
 次に一般青壮年に告ぐ・・・・・
 諸子は国の宝なり 平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ
   海軍中将大西瀧治郎」、と。
大西瀧治郎の遺書について、梯久美子は、こう書いている。
<先頭に立って推し進めた特攻作戦を、大西はみずから統率の外道と呼んでいた。いかなる形で戦争が終結しようとも、部下たちの死に殉じる覚悟だったに違いない>(『昭和の遺書』)、と。
軍の中枢ではなく、より一戦に近いところで戦っていた大西、自らが死に就かせた若者たちへの謝罪、さらに、敗戦国のこれからの若者たちへの願い、特攻の是非は別として、責任を取った。
中枢も中枢、開戦時の参謀総長として、また、陸軍大臣として、戦争を指導したひとり、元帥陸軍大将・杉山元が拳銃により自決したのは、9月12日。敗戦から日が経っている。
その前日から、GHQによるA級戦犯の逮捕が始まっていた。終戦時には、本土決戦に備えて設立された第一総軍の司令官だった故、その武装解除や占領軍への対応など、杉山には杉山の事情もあったようだ。すぐに自決できない。しかし、夫人は、夫がなかなか自決しないので、苛立っていた、という。
杉山が参謀総長室で自決を遂げたとの電話を受けた夫人は、ただちに仏間に入り、黒装束に着替え、夫の後を追った。短刀を用いた覚悟の自決であった、という。
杉山元、「御詫言上書」と上書きされた遺書を残している。天皇への詫び状である。
自分の力が及ばなかったので、このようなことになった、と記した後、<・・・・・痛ク宸襟ヲ悩マシ奉リ、恐惶恐懼為ス所ヲ知ラス。其ノ罪万死スルモ及ハス。・・・・・>、とし、最後に、謹んで大罪をお詫び申し上げますと共に、御竜体、つまり天皇のお身体のお健やかなことをお祈り申し上げます。恐惶謹言、と結んでいる。
認めた日付けは、8月15日。徹頭徹尾、天皇へお詫びしている。
開戦へ大きく舵を切ったターニングポイントは、昭和16年9月6日の御前会議であった。昭和天皇が、突然懐中から、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさはぐらむ」、を記した紙片を取りだし、読みあげられた時の御前会議である。
『昭和天皇独白録』には、この日の前日、首相・近衛文麿の進言により、天皇は、参謀総長・杉山元、軍令部総長・永野修身のふたりを呼んで、話をしたとある。そこで楽観論を述べた杉山元に対し、天皇は強く叱責している。杉山元の頭には、その時の模様が残っていたのかもしれない。
東條英機と近衛文麿の責任の取り方についても書こうと思っていたが、眠くなった。また、明日にする。
日本の8月、戦争の8月である。終戦の、敗戦の、8月である。それは、65年経った今でも変わりはない。しかし、そのことを追っていくとキリがない。あと1日か2日で切りあげよう。