ご考究。

終戦の日。全国戦没者追悼式。12時、NHKの画面に向かい黙祷す。
終戦時、11歳であられた今上天皇は、76歳になられた。例年通り、皇后と共に出席された天皇、おそらく、国民の誰よりも深い思いを、その胸中に抱かれていたことであろう。
昭和20年9月2日、米戦艦ミズーリ号上で、日本は、連合国との間の降伏文書に正式に調印した。その1週間後の9月9日、昭和天皇は、奥日光で疎開生活を送っていた11歳の皇太子・継宮明仁親王(今上天皇)からの手紙に返事を書いた。(『昭和天皇の履歴書』)
同書に、その全文が載っている。その一部を引く。
<手紙をありがとう・・・・・敗因について一言いわしてくれ・・・・・
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進むを知って 退くことを知らなかったからです
・・・・・寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
 九月九日                                父より>
昭和天皇、皇太子に対し、日本がなぜ負けたのか、その敗因を3つあげている。
なお、『昭和天皇独白録』中の「敗戦の原因」のくだりでは・・・・・
<第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば、百戦危からずといふ根本原理を体得してゐなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある主(首)脳者の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本(権兵衛)といふ様な大人物に缺け、・・・・・>、と4つの敗因を語っておられる。
『独白録』は、終戦の翌年、昭和21年の3月から4月にかけて、昭和天皇が語られたものだが、敗戦直後の皇太子宛ての手紙での文言と、その敗因分析、基本的には同じと言えるだろう。
文春新書編集部が纏めた『昭和天皇の履歴書』には、昭和天皇が記す”敗因”について・・・・・
<実に簡潔で要領を得た説明である。いまとなれば常識として語られるその理由を、敗戦直後のこの時期にこんなにあっさり明かされると、いささか拍子抜けである。継宮に教えた「昭和の悔い」を、国民にも示す機会がなかったのは残念である>、とある。
実は、敗因分析どころか、天皇御自身の身の処し方についても、御自身またその周辺で、さまざまな動きがあった。
半藤一利、御厨貴、原武史の鼎談を纏めた『卜部日記 富田メモで読む 人間・昭和天皇』(2008年、朝日新聞社刊)は、大変面白い。
何しろ、半藤、御厨、原という昭和史、なかんずく、昭和天皇に関するオーソリティーの鼎談なんだから、面白くないわけががない。さらに、『卜部日記』や「富田メモ」といった待従のものばかりでなく、『木戸幸一日記』、『高松宮日記』、『入江相政日記』といったものの興味深い個所が語られている。
昭和20年の終戦直後、昭和23年の東京裁判の判決が出た時、そして、昭和27年のサンフランシスコ平和条約発効前、都合3度出た退位論についても語られている。退位まではしないにしても、国民に対して謝罪を出すかどうかで、宮内庁を含めた日本の上層部、もめていたそうだ。
講和条約発効、独立回復の際には、時の宮内府長官・田島道治は、「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」という言葉の入った「謝罪詔勅草稿」を作成していた、という。しかし、<その際読みあげられた天皇の「お言葉」には、謝罪の言葉は一切入っていませんでした。その背景には、首相・吉田茂の意向があったと言われています>、と原武史は語っている。
それも含め、私は、こう考えている。
昭和天皇が考えられていたこと、また、やり残されたこと、今上天皇は、実に見事に引き継がれ、実行されている。そこから引き出されたのが、6月23日の沖縄慰霊の日、8月6日の広島、9日の長崎慰霊の日、そして今日、8月15日の終戦の日、この4つの日は、国民すべてが忘れてはならない日、というお心だ。
国民に対してというよりも、自らのお心により強く課しておられる。今上天皇の深いご考究があったればこそ。
その原点が、敗戦直後の昭和天皇からの手紙に書かれていた、敗因分析にあること、間違いない。
これが、その後のさまざまな、今上天皇のご考究に繋がった。