決断。

昭和20年の今日、最後の御前会議が開かれた。
8月9日深夜から翌10日未明にかけての御前会議で、国体護持を条件としたポツダム宣言受諾の聖断は下っていたが、その文言に連合国から、ノーという返事が返ってきたからである。
『昭和天皇独白録』の「八月十四日の御前会議前后」の中で、昭和天皇、こう語っておられる。
<「ポツダム」宣言の受諾に付ては、九日の会議に平沼の意見で、天皇の国家統治の大権云々と修正したが、米国ではその意味が判らず、聨合国の立場は斯くの如しと云って来た、若し外務省の原因(案?)通りであったなら、条件なしで行ったと思ふ>、と。
同書の各事項についての”注”を附している半藤一利によれば、実は、9日の御前会議の折り、「日本天皇の国法上の地位・・・」という外務省の原案に対し、枢密院議長の平沼騏一郎がクレームをつけた。「天皇統治の大権は憲法によって定まったものではなく、国家成立とともに本然としてある神聖なる大権である。それゆえに、”天皇の国家統治の大権に・・・”、と改むべきである」、と。結局それが通った。
<その結果として連合軍からの回答の中に、「天皇および日本国政府は、連合軍司令官に subject to する」というあまりにも有名な一句が加わった>、と半藤は記している。<陸軍は「隷属する」と訳し、外務省の「制限の下におかれる」という苦しまぎれの訳に猛反対・・・>、とも書いている。
だから再度の”天皇命令”による御前会議が必要となった。会議の前には、軍部の要望で、永野修身、杉山元、畑俊六の3人の元帥を呼んで意見を聞いている。<三人共色々な理由を付けて、戦争継続を主張した>、と昭和天皇は語っている。
しかしその後、昭和天皇、こう語っている。<午前十一時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最后の引導を渡した訳である>、と。
半藤一利、その”注”で、<宣戦あるいは講和の権は明治憲法によって定められた天皇大権である。その天皇大権を行使して、一刻も早く終戦を急いだ様がヴィヴィッドに語られている>、と記している。
浅学の私が知る限り、昭和天皇が自らの意志を明確に示し、それを押し通したのは、二度のみ。二二六事件の時に、決起した青年将校と兵を、叛軍と断じ、討伐命令を出した時と、この終戦の決断の時の二度。遅きに失した、との感もあるが、よくぞご決断下された、との思いもある。
最後までポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を主張していた陸軍大臣・阿南惟幾は、この日の夜半、自刃する。
梯久美子著『昭和の遺書 55人の魂の記録』(文春新書 2009年刊)には、こうある。
<ポツダム宣言受諾の聖断が下った八月十四日夜、陸軍大臣・阿南惟幾は、二枚の半紙に最後の言葉をしたためた。
一枚には、
 大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺すへき片言もなし
  八月十四日夜 陸軍大将惟幾
との辞世があり、もう一枚には、
 一死以て大罪を謝し奉る
  昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大臣阿南惟幾
と書かれていた>、と。
その余白に、<神州不滅ヲ確信シツヽ>、と書き加えた、という。
義弟にこの遺書を託し、酒を酌み交わした後、縁側に端坐して割腹。次にみずからの血にまみれた手で短刀を握り、頸動脈を切って果てた、という。
家族へは、義弟に伝言は残したが、遺書は残さなかった。遺書は、天皇に宛てたものと、国家と国民に宛てたもののみ。
阿南は、最後まで、ポツダム宣言受諾には反対していた。梯久美子、こう書いている。
<阿南には、天皇への純一な忠誠心だけがあった。・・・・・つねに公と私を峻別した、実直一途な阿南らしいともいえる>、と。